第7章 君を守る
「俺が守る。親父がいないとき、ママが手ぇ離せねえときも……リアム兄さんのほうは、俺が見てる」
シェリーは階段の上にいるシェーンを見上げた。
「……うん」小さく返事をして、それから付け足す。「じゃあ、リアム兄さんのこと、守る人がいないときは……わたしが守る」
シェーンの口元がひくりと引きつった。
「アイツは要らねえ。必要なのは鎮静剤と、溶接して二重に塞いだドアだ」
シェリーはぷっと吹き出し、万年筆をエプロンのポケットに押し込んで胸に添えた。
その日から、地下室はシェリーの定期コースになった。
ヴェラはエプロンを脱ぎ、黒いスポーツタンクにハイウエストのパンツ。金茶の巻き髪は高く結い上げている。
彼女はマットの中央に立ち、足元の子どもを見下ろした。
「シェリー。五歳だからって手加減はしないわ。今ここで泣く子は、本当に何かあったとき、もっとみじめに泣くことになる。分かった?」
「分かった、ママ」
最初は持久力。
円形トラックは一周30メートル。10周。
6周目でシェリーの顔はリンゴみたいに真っ赤になり、短い脚は鉛でも詰めたみたいに重い。こっそりヴェラを見ると、ヴェラはストップウォッチを構えたまま眉を上げ、指で「続けろ」と合図した。
シェリーは奥歯を噛みしめる。
7周目、8周目。9周目でマットに頭から突っ込みかけたところを、ヴェラが片手でひょいと掴んで起点へ戻した。
「もう一回」
「……うん」
二つ目は反応。
ヴェラがテニスボールをひと掴みし、あらゆる方向から投げつける。地面に落ちる前に弾くか、避けるか。
最初の10分で、額と肩と尻に二十発以上もらった。目の縁が赤くなっても、涙だけは落とさない。
三つ目は近接の自衛。
万年筆、鍵――先の尖ったものは眼窩へ、喉へ。背後から首を絞められたら、頭を落として手首の内側に噛みつく。
「覚えときなさい、ハニー」ヴェラがしゃがみ込む。「勝てないなら逃げる。逃げられないなら噛む。噛めないなら死んだふり。あんたの命は、相手の面子より一万倍高い」
「……うん」
サイラスは階段口にもたれ、火を点けていない煙草をくわえたまま、最初から最後まで見ていた。
シェリーがマットにへたり込み、打ち上げられた魚みたいにぜえぜえしてから、ようやくのそのそ降りてくる。手には輸入ものの筋肉修復クリームと、温かい蜂蜜湯。
「こっち来い」
シェリーは四つん這いで寄り、首を反らしてごくごく飲んだ。サイラスは片手で彼女を持ち上げ、ソファにうつ伏せにさせる。袖をまくり、薬を出して擦り合わせて温め、雑なのに妙に優しい手つきで塗り込んだ。
「痛ぇか?」
「平気。ママ、加減してる」
サイラスが鼻で笑う。
「お前のママの加減ってのはな……」
マットのほうから冷たい鼻息が飛ぶ。
「サイラス。もう一回私のことを茶化したら、今夜は客間ね」
サイラスは即座に口をつぐんだ。
シェリーは顎を腕に乗せ、目だけくるりと動かす。
「パパ」
「ん?」
「ママって、前は本当にT州のプロ格闘コーチだったの?」
「そうだぞ。T州の女子総合格闘技、ライト級チャンピオンだ。トロフィーも屋根裏の物置に掛けてある。あとで見せてやる」
「……じゃあ、喉をちょんってやっただけで、あのおじさんの腕が使い物にならなくなるのも、格闘のチャンピオンならできるの?」
「……」サイラスの瞼がぴくっと跳ねた。「お前のママはな、趣味で解剖学もやってんだ」
「趣味で解剖学?」
「そう、趣味」サイラスは真顔で言い切る。「本業は、お前にケーキ焼くことだ」
シェリーはソファのクッションに顔を埋めて、笑いを噛み殺した。
サイラスは肩を揉みながら、声を落とす。
「シェリー、ひとつ話がある」
「うん」
「うち、ここ二年いろいろ厳しくてな。飼料は値上がり、職人の給料は払わなきゃなんねえ。お前のママは服も買うだろ、一回でクローゼット一つ分」
シェリーはぱちぱち瞬きをする。
「だから来週の水曜の出張は、どうしても外せねえ。南でデカい取引がある。まとめりゃ来年は安泰。まとめられなきゃ……」
「まとめられなきゃ、どうなるの?」
「お前のママが、あの金のネックレス売る羽目になる」
マットのほうで「ぱんっ」と乾いた音。ヴェラがタオルを器具に叩きつけた。
「死ぬわよ、あなた」
サイラスは首をすくめ、シェリーに片目をつぶってみせる。シェリーは肩を震わせて笑い、笑い終えると顔を上げた。目が真剣になる。
「パパ。外で、ママの悪口言う人いるの?」
薬を塗る手が止まった。
「昨日、ママとチョコ買いに行ったでしょ。帰り道に、チェックのコートのおばさんが、もう一人とひそひそ指さしてた。ママ、聞こえてないふりして……でも、わたしの手をぎゅって握ってた」
サイラスは二秒ほど黙り、そっと彼女の頭を撫でた。
「お前のママはな、弾丸も怖がらねえ。安っぽいセーターの中年女が噂話してるくらいでビビるかよ。相手にする価値がねえだけだ」
「……パパは?」
「俺?」サイラスは小さく笑った。「俺はもっと気にしねえ。あんなもん気にして生きてるヤツは、長生きできねえ」
シェリーは、分かったような分からないような顔で頷いた。
サイラスは彼女を抱え上げ、軽く上下に揺すってから言う。
「ほら、風呂入って飯だ。今日はお前のママがスープ煮てる。二杯飲め。明日も続きだ」
火曜の夜、サイラスは荷造りをしていた。
擦り切れた古いスーツケース。着替えのシャツが二枚、予備の作業靴、折り畳みのカミソリ。カミソリの仕込み部分に何かが挟まっていたが、シェリーは見なかった。
彼女は万年筆を抱えて主寝室の前の絨毯に座り、ヴェラがサイラスの襟を整えるのを眺める。
「南の連中は……」ヴェラが低く言う。「ジョンは相変わらずでしょ。正面からぶつからないで」
「分かってる」
「サイモンには話を通した。警察の動きは見張らせる。アーサーには薬を揃えさせた。何かあったら、すぐあいつの病院へ」
「了解」
「リアムは――」ヴェラが一瞬だけ言いよどむ。「この二日で戻る。シェリーには、ちゃんと話した?」
「話した」サイラスは振り返り、扉口の小さな塊に手招きした。「こっち来い、シェリー」
シェリーは万年筆を抱えたまま、ちょこちょこと近づいた。
サイラスは片膝をつき、目線を合わせる。いつもの軽薄さと気怠さが薄れ、奥にあるものが少し覗いた。
「いいか。パパの話を聞け」
「うん」
「お前のリアム兄さんはな……」言葉を選ぶように続ける。「悪いヤツじゃねえ。けど、頭の中の一本の線が、普通の人とズレてる。機嫌がいいときは、笑い方も綺麗だ。だが機嫌が悪いと――」
「爆発させる」いつの間にか、シェーンがドア枠にもたれていて、冷たく言い足した。
サイラスが睨み、またシェリーへ向き直る。
「機嫌が悪いと、ひどいことも言うし、物を投げることもある。廊下から来たら迂回しろって、前に言ったな。覚えてるか?」
「覚えてる」
「でもな、今日から少し変える」サイラスは万年筆を握りしめる小さな手を包む。「迂回が第一。迂回できねえなら、アイツが八つ当たりしてきても、我慢するな。譲るな。兄だからって、お前が受ける義理はねえ」
シェリーが顔を上げる。
「逃げるなら逃げろ。ママを呼ぶなら呼べ。このペンを使うべきなら――」万年筆を軽く叩く。「使え。パパがいない間、お前を惨めにさせていいヤツなんて、一人もいねえ。いいな?」
「……うん。分かった」
サイラスは息をつき、頭を撫でる。
「いい子だ」
立ち上がり、ドア枠のシェーンを見る。
「お前もだ。ちゃんと見張れ。リアム兄さんを近づけるな」
シェーンは答えず、顎を小さく引いて肯定した。
