第9章 狂気
シェーンは絨毯のほつれた糸を見つめたまま、十秒、口を開かなかった。
ヴェラは急かさない。指先で、さっき自分が乱した金色の細い髪を、ゆっくり、ゆっくり梳いてやる。
「……ママ」
「うん」
「……あれは、本当に――俺に隠したくなかったから?」
「自分で聞きなさい」
ヴェラは立ち上がり、スラックスについたはずもない埃をぱん、と払う。
「夕飯の前に下りてきて。今夜はタラのムニエル。あんたの分の、塩なし蒸しタラはもう鍋に入れてあるわ」
扉がカチリと閉まった瞬間、シェーンは顔を膝に埋めた。
リビングでは、シェリーが絨毯にうつ伏せになり、五面ルービックキューブと格闘していた。
今日はシェーンに助けを求めない。面ごとに、面ごとに合わせていって――四十分。できたのは二面半。
背後から、羽が触れるみたいに軽い足音。
それでも、振り向かない。
シェーンが正面に座り、あぐらをかくと、キューブをひょいと取り上げた。
「返して」シェリーが小さく言う。「わたし、自分で――」
「……しーっ」
カチ、カチ、カチ。十二秒。
復元されたキューブが、彼女の手に押し戻される。シェーンは俯いたまま、前髪が目元を隠していた。
「……今日、後ろの席に行きたくない」
シェリーが顔を上げる。
「先生には俺が言う。俺が、お前の隣に座るって。文句があるなら、俺に言いに来い」
「……お兄ちゃん?」
「ごめん」
鼻の奥がつん、と熱くなった。シェリーは勢いよく飛びついて、シェーンの首にしがみつく。お団子頭が彼の顎をくすぐった。
シェーンは全身を強張らせ、宙に浮いた手をしばらく彷徨わせ――最後はぎこちなく、ぽん、ぽん、と彼女の背中を叩いた。
階段の踊り場。ヴェラが焼き立てのケーキを皿に乗せて立っていた。
「ママ、ちょっと出かけてくるわ」
「どこに?」
「リアム兄さんを迎えに」
シェーンは階段を下りてきて、最後の一段で止まる。顔色がすっと沈んだ。
「ママ。ジョーに行かせて」
「ジョーは先週、リアム兄さんにエアライフルで耳たぶを半分持っていかれたわ」
ヴェラは柔らかく笑う。
「今、屋敷の三〇〇メートル以内に踏み込めるの、うちだと私しか残ってないの」
シェーンは二秒黙り、踵を返して二階へ上がった。
そして、また降りてくる。黒のタートルネックの上にトレンチを羽織り、両手をポケットに突っ込んだまま。
「俺も行く」
「ダメ」ヴェラは車の鍵をつまみ上げる。「あんたは妹と留守番」
「ママ。あいつ、今回はママが無理やり連れ戻したんだろ。車の中で何をやるか――ママのほうが分かってる」
ヴェラの動きが止まった。
小さなぬいぐるみの兎を抱えたシェリーが、二人の間からそっと口を挟む。
「ママ。わたしも行く」
「行かない」
「ダメ」
母と息子が同時に言った。
「なんで?」シェリーは顔を上げる。「どうせ、いつか会うんでしょ。家で会うのと、車で会うの、何が違うの?」
ヴェラは彼女を二秒見つめ――ふっと笑った。
「……いいわ。乗りなさい」
祖父母の代からの屋敷は、北の郊外、標識もない私道の突き当たりにあった。
錆びた蔦が絡みつく鍛鉄の門。門章には、スプレーで歪んだドクロが描かれている。
門がギギ、と内側へ開き――三階建ての石造りの本館。西側一面の外壁は焦げて黒く、レンガの目地には掃除しきれなかった弾痕が残っていた。
シェリーは頬を窓に押しつける。
「ここ、燃えたの?」
「先月、一回」シェーンは無表情で言う。「一昨年は二回。その前の年は一回、爆発した」
「どうして?」
「リアムの機嫌が悪かった」
車は正面階段の下で止まった。――なのに、扉は開かない。
ヴェラがクラクションを三回鳴らす。
二階の東端の窓がガシャーンと割れ、空の酒瓶がボンネットすれすれに飛んだ。砕石の路面で弾け、緑の破片が散る。
「リアム。もう一本投げたら、今夜、あんたの温室を培養皿ごと更地にするわよ」
二階が静まり返った。
二分ほどしてから、彫刻のある玄関扉が、ぎい、と内側から開く。
出てきた少年は十二、三歳に見えた。痩せ方が、少し異常なほどだ。
アイボリーのタートルネック。上から深灰のカーディガンをだらりと羽織り、袖口は肘まで捲られて、透けるように白い手首がのぞいている。
濃い栗色の長髪が肩まで落ち、毛先はまだ濡れていた。
作り物みたいに整った顔。長い睫毛、薄い唇、定規で引いたみたいに高い鼻梁。けれど――琥珀色の瞳だけが冷たい。
彼は指でこめかみを押さえた。陽にやられて頭が痛い、とでも言いたげに。
「ママ」
声はひどく軽く、病んだ掠れが混じる。
「……今度は何を拾ってきたの?」
シェリーは握っていた万年筆に、きゅっと力を入れた。
すでにシェーンが降りていて、彼女の側へ回り込み、ドアを開けると、腕を伸ばして前に立つ。
「リアム。黙れ」
リアムが眉を上げ、口元に薄い笑みを浮かべた。
「シェーンが人のために庇うなんて、いつから? それとも、君も騙された?」
「リアム」ヴェラの声が冷える。
「ママ、そう焦らないで」
リアムはドア枠に手を添え、ゆっくり階段を下りてくる。
「児童養護施設の鉄門の外で拾ってきた小さなのが、苗字もないくせに、いきなり父さんをパパ呼び。ママもママ呼び」
シェリーの二歩手前で止まり、少しだけ身を屈める。
「妹ちゃん」
優しく笑って。
「この家が何をやってるか、知ってる?」
シェリーは退かなかった。
琥珀の目をまっすぐ見返し、一字ずつ言う。
「農場主」
リアムは一瞬きょとんとし――次の瞬間、肩を揺らして笑い出した。二度、咳き込み、手の甲で口元を押さえる。
「農場主?」
笑い終えると、背筋を伸ばす。
「父さんがそう言った? いや、参った。じゃあ言ってみて。うちの牛、一頭いくらで売れる?」
「兄さん」
シェーンが半歩前に出て、シェリーを丸ごと背中に隠す。
「もう一言でも言ったら、俺がママの代わりにやる」
「君が?」
リアムは横目で睨む。
「先月、僕の温室の栽培棚を壊した件、まだ精算してないけど」
「あれはお前が中にシアン化物の噴霧器を仕込んだからだ」
「アブラムシ用だよ」
「アブラムシに、人間の呼吸器粘膜を狙う濃度は要らない」
兄弟の視線が、シェリーの小さな頭の上で――チン、と火花みたいにぶつかった。
ヴェラはこめかみを揉み、車から降りる。
「リアム。乗りなさい」
「ママ、車酔いする」
「乗りなさい」
リアムは小さく息を吐き、だるそうにシェリーの横を回って助手席へ向かった。
すれ違いざま、ふいに足を止める。身を屈め、シェリーの耳元へ。
羽毛みたいに軽い声。
「妹ちゃん。忠告してあげる。この家は、君が居られる場所じゃない。足が動くうちに――自分で転がって帰れ」
シェリーは勢いよく顔を向けた。鼻先が彼の顎にぶつかりそうになる。
「兄さん」
にこり。目が、怖いほどきらきらした。
「妹から忠告。まず、袖口の中の針、抜いたら?」
リアムの瞳孔が、きゅっと縮む。
最初に動いたのはシェーンだった。捲られた袖口を掴み、力任せに振る。
チン――
髪の毛ほど細い針が裏地の隙間から滑り落ち、砕石の道に転がった。
「ママ、これは――」
ヴェラの顔から、温い笑みが完全に消えた。
「乗りなさい。後部座席。手は、私に見えるところに置く」
リアムは肩をすくめる。
病人みたいな薄い柔らかさが、一瞬で剥がれ落ちた。
下にあったのは――隠そうともしない狂気。
