第1章
【深が本当に愛しているのは私。信じられないなら自分の目で見ればいい。あなたの目の前でキスしてみせる――深は、私を拒まないから!】
新谷夏菜からのメッセージを受け取ったとき、白川意織は結婚記念日のリングをデザインしている最中だった。
結婚して三年。一ノ瀬深に関することは、どんな些細なことでも彼女が手配してきた。けれど今回は――想定外だ。
深は、心で浮気をしていた。……相手は、彼の養妹。
意織はスマホをぎゅっと握り締め、そのまま目的地へ駆けた。
静かなフレンチレストラン。窓際の席で、深と夏菜が向かい合って座っている。意織が声を出すより早く、夏菜が彼女の姿に気づいた。
彼女は薄く笑い、何か一言囁いたかと思うと、ふいに立ち上がって――そっと深の唇に口づける。
深は一瞬だけ目を瞬いた。だが避けるどころか、夏菜の腰に腕を回し、ゆっくり引き寄せた。ふたりの距離が縮まって、キスはさらに深くなる。
意織の顔色がさっと失せた。胸をえぐられるような痛み。
どうして、突き放さないの――?
新谷夏菜は慌てた様子もなく視線を上げ、まるで今気づいたかのように、わざとらしく驚いて後ずさった。
「白川さん? ど、どうしてここに……」
深は気だるげに振り返り、呆然と立ち尽くす意織を見ても、特に気にした様子はない。それどころか、夏菜を気遣うように支えた。
「気をつけろ。転ぶぞ」
夏菜は委屈そうに身を縮め、そのまま深の胸に身を寄せる。
意織は麻痺したみたいにそれを眺めた。心は刃で刻まれるようだった。
彼女と深は政略結婚で、恋愛の土台などない。
それでも人は欲深い。毎日一緒に過ごせば、いつか彼が自分を愛してくれるかもしれない――ほんの少しでも。
この三年、深は彼女の接近や好意を拒まなかった。
だが夏菜が戻ってきた瞬間、ふたりが慎重に保ってきた薄い仮面は、簡単に割れた。
「……お邪魔だったみたいね」
意織は必死に平静を装う。無様に詰め寄って、尊厳を捨てたくなかった。
深の深い瞳に、不快の色が走る。
「尾行したのか?」
ほかの女とキスをしたことなど、取るに足らない出来事だと言わんばかり。
その冷淡さが、意織の全身を凍らせた。
半年前まで、彼は少しずつ冷たさを解き、家に帰る回数も増えた。意織が甘えるように「私のこと、受け入れてみてくれる?」と尋ねたときも、彼は頷いた。
深のその一つ一つが、彼女に「私は特別なんだ」と錯覚させた。――結局、幻想だったのだ。
意織はふっと笑い、皮肉を込める。
「あなたの“可愛い子”からメッセージが来たの。ここでデートしてるって」
深の目は相変わらず冷たく、苛立ちを隠しもしない。
「だから来て問い詰めた? お前が俺を管理する立場じゃない。離婚の件は、追って通知する」
胸の奥が、波のように痛んだ。
北峰市一の名家、一ノ瀬家の当主は冷酷無情――今日、嫌というほど思い知らされた。
準備も拒否も許されない。離婚さえ「通告」。
意織は瞬き一つで涙を胸に押し込み、掠れた声で言う。
「通知はいらない」
一ノ瀬深が眉を寄せる。
「……何だ?」
意織は無理やり口角を上げた。声は冷え切っていた。
「私が通知する。離婚よ」
以前なら「離婚」という言葉を思うだけで胸が詰まりそうだった。なのに今、口にして残ったのは空虚な麻痺だけ。想像していたような、引き裂かれる痛みはなかった。
彼から離れるより、ほかの女と夫を共有するほうが耐えられない。
深は眉を上げ、意にも介さない。
「ふざけるな。夏菜は、お前の“一ノ瀬夫人”の座を脅かしたりしない。秘書に、前に頼んだ“YOSHA”のデザイン手稿を返させる。それで補償だ」
……結局、彼女は簡単にあしらえる玩具程度なのだ。少しの施しで、浮気を見なかったことにできると本気で思っている。
意織は拳を握り締めた。尖った爪が掌に食い込み、痛みだけが、内側で荒れ狂うものをどうにか押さえ込んでくれる。
深の態度が、はっきり告げていた。彼は最初から意織など大切にしていない。
意織は唇を冷たく歪め、踵を返す。
背後から、深の淡々とした声が追ってきた。どうでもいいことを評するみたいに。
「意織はああいうやつだ。少し拗ねても、物をやればすぐ機嫌が直る」
夏菜の柔らかな声が、遠慮がちに混じる。
「じゃあ……あなたにとって私も、“贈り物”みたいに扱えば済む存在?」
深の声が一瞬で甘くなる。露骨な贔屓。
「お前は違う。あいつは三年も主婦をやって、視野が狭い。何もできない」
その言葉が、意織の胸を深々と貫いた。
彼のために、彼女は自分のデザインの仕事を手放した。三年間、寝る間も惜しんで気を配り、身の回りを整えてきた。なのに、その努力は一言で踏みにじられ、存在価値すら否定された。
……もういい。
これ以上しがみついて、何になる? 深の心に、最初から自分の居場所なんてなかった。
意織は家に戻るなり、黙って荷物をまとめ始めた。指輪を外し、机の上に放る。身分証と着替えだけをスーツケースに押し込む。
途中、弁護士に連絡し、離婚協議書の雛形を今すぐ持ってくるよう頼んだ。
……
窓の外は土砂降りだった。冷たい雨が湿った風を連れて、骨の髄まで染みてくる。
タクシーでホテルに着くと、フロントの言葉が意織を凍りつかせた。
「申し訳ございません、白川様。こちらに通知が入りまして……お客様はブラックリストに登録されており、ご宿泊手続きができません」
ここで三軒目だ。
犯人は想像するまでもない。深の差し金。こんなことで、頭を下げて戻ると思っているのか。
意織は唇を引き結ぶ。一ノ瀬夫人として三年過ごした彼女を、深は「自分がいなければ生きられない」とでも思っているのだろうか。
踵を返した、そのとき。
視線を上げた意織は、ホテルロビーに立つ夏菜と目が合った。
夏菜は、わざとらしい驚きの表情で近づく。
「白川さん。こんなところで会うなんて、ほんとにびっくり」
意織の傍らのスーツケースを見て、夏菜の笑みがさらに濃くなる。わざと首を傾げる声。
「白川さん、これ……お出かけ?」
意織は眉を寄せた。よりにもよって、ここで。
相手にする気もない意織を見ても、夏菜は苛立たない。柔らかく続けた。
「私のせいで、あなたと深が揉めるなんて……あのメッセージ送らなきゃよかった。全部、私が悪いの」
意織は掌を握り、指先が肉に食い込む。理解している。これは謝罪ではない。誇示だ。
平気なふりをしたい。けれど他人と抱き合うあの男は、彼女の夫で、彼女が三年間愛した人だった。
夏菜は意織の前に立ち、仮面をするりと外した。残ったのは、露骨な挑発。
「言ったでしょ。深が愛してるのは私だって。白川さんが信じないから、わざわざ見に来た。……今は追い出されたってわけ?」
積もり積もった怒りと屈辱が、理性を突き破った。
意織の手が上がり、夏菜の頬を思いきり叩きつける。
乾いた音が、だだっ広いロビーに響き渡った。
「白川意織!」
冷え切った低い声。
いつの間にか深がロビーに立っていて、ちょうどその場面を目撃していた。
