第7章
悠だと思ってロビーへ向かった意織だったが、そこにいたのは夏菜の母親――新谷佐和子だった。
「白川さん」
思い詰めたような顔の彼女は、意織の姿を認めるなり、すがりつくように手を伸ばしてきた。
「お願い、深さんを説得してちょうだい。夏菜が病院で、死ぬって騒いでるの。深さんが会いに来てくれないなら、もう生きていけないって……」
意織は、計算高さの透けて見えるその顔を冷ややかに見下ろし、ただただ呆れ果てていた。
「人違いではありませんか。私は彼の妻ですよ。夫の愛人に死なないよう説得しろとでも?」
「違うの、白川さん、誤解よ……」
「誤解などしていません」
意織はピシャリと遮った。
「彼女が生きようが死のうが彼女の勝手ですし、深が会うかどうかも彼の勝手です。私には、何の関係もありませんから」
きびすを返して立ち去ろうとした意織の腕を、佐和子が必死に掴んで引き留める。
「そんな冷たいこと言わないで! 夏菜だって一ノ瀬家のために、深さんを救うためにあんな……」
「救う?」
意織は微かに眉をひそめた。
「どういう意味ですか」
佐和子は失言に気づいたように慌てて口を覆い、泳いだ目をそらした。
「な、なんでもないわ。とにかく、お願いだから助けてちょうだい……」
意織はその手を振り払い、一度も振り返ることなくエレベーターに乗り込んだ。
救う?
三年前のあの交通事故のことは、意織も覚えている。
深の父親は即死。運転手の新谷夏雄も、主人を庇って命を落とした。
まさか、自分の知らない裏があるというのか。
デスクに戻った意織は、ますます胸のざわめきを抑えきれなくなっていた。
彼女は悠に電話をかけた。
「ひとつ調べてほしいことがあるの。三年前の交通事故の詳細な記録。特に、夏菜がどう関わっていたのかを」
電話越しの悠は一瞬戸惑った。
「どうして急にそんなことを?」
「表面に見えているほど、単純な話じゃない気がして」
意織は窓の外のどんよりとした空を見つめ、氷のように冷たい声で言った。
「もし深が、その『命の恩』とやらで彼女を甘やかしているなら、なおさら知る必要があるわ。その恩が、一体どれほどの価値を持つのかをね」
……
本邸。
意織はバッグを手に、夜の闇に紛れて帰ろうとしていた。
「もう帰るのかい」
キヨは応接間の紫檀の椅子に腰を下ろし、手元の沈香の数珠をゆっくりと繰りながら、落ち着き払った声で言った。
その傍らには二人の使用人が控え、淹れたてのツバメの巣のスープを恭しく捧げ持っている。
意織は足を止め、振り返る頃にはすっかり従順な孫嫁の顔を作っていた。
「お義祖母様。明日は朝から会社のミーティングがありますので、戻って資料の準備をしなければならないんです」
「会社のことなら、深に口利きさせれば済む話だろう」
老婦人は手招きし、自分の隣に座るよう促した。
「夕方からどうも胸騒ぎがしてね。医者にも安静にするよう言われているんだ。意織、お前はこの婆さんを不安なまま逝かせるつもりかい?」
そう言われてしまえば、意織に返す言葉はない。
実際、キヨはここ数年入退院を繰り返しており、一ノ瀬家の人間は誰一人として彼女の体調を蔑ろにはできなかった。
意織も分かっている。これは老婦人なりの、彼女を引き留めるための方便なのだと。
「お義祖母様、縁起でもないこと仰らないでください。ずっと長生きしていただかなくちゃ」
意織は隣に座り、大人しくスープを受け取って少しずつ口に運んだ。
「なら、数日ここに泊まっておくれ。部屋はもう長谷川に片付けさせてある。お前たちが結婚した時に使っていたあの部屋だよ」
老婦人は意織の手の甲を優しく叩いた。
「今夜は深も泊まっていく。若い者同士、腹を割って話し合いなさい。何でも溜め込むもんじゃないよ」
意織は手元の器に目を落とした。とろみのあるスープの表面に、疲労の滲む自分の目元が映っている。
今夜はもう、帰れそうにない。
二階へ上がる階段の先、廊下のセンサーライトが薄暗く灯っていた。
寝室のドアを開けると、ひんやりとしたシダーウッドの香りがふわりと鼻をかすめる。
深はすでにシャワーを浴び終えていた。ダークグレーのシルクのガウンを羽織り、窓際のシングルソファに腰掛けて新聞に目を通している。
ドアの開く音がしても、彼は顔を上げようともしなかった。
意織はまっすぐクローゼットへ向かい、露出の少ない長袖のパジャマを取り出すと、そのままバスルームへ入った。
彼女が出てきたとき、深はすでにベッドの片側に横たわっていた。半分以上のスペースを空け、その境界線を示すかのように、中央には細長い抱き枕が横たわっている。
明確な線引きだ。
意織にとっても願ったり叶ったりだった。照明を消し、暗闇の中でベッドに潜り込む。
部屋の中は、壁掛け時計の秒針の音が聞こえるほど静まり返っていた。
意織がまどろみに落ちかけたその時、ナイトテーブルの上のスマートフォンが突然震えだした。静寂に包まれた夜の寝室で、その振動音はひどく耳障りに響く。
深のスマートフォンだ。
彼はすぐに応答し、相手が口を開くより先に声を潜めた。
「もしもし」
意織は目を閉じたまま、聞くまいとした。だが声は枕元から聞こえてくる。耳を塞ぐわけにもいかなかった。
「深さん……起こしちゃった?」
電話の向こうから聞こえてきたのは夏菜の声だった。明らかに泣きじゃくった後で、息も絶え絶えに震えている。
「さっき、怖い夢を見たの。白川さんがまだ私のことを怒ってる夢……。電話して謝りたかったんだけど、連絡先を知らなくて。深さんから伝えてもらえないかな」
深は少し沈黙し、横目で隣を見た。
意織は寝息を立てており、すっかり熟睡しているように見える。
「彼女はもう寝てる」
「そっか……」
夏菜は鼻をすすった。
「ごめんなさい、お邪魔だったよね。私って本当に駄目だな、いつも二人に迷惑ばかりかけて。明日退院したら、白川さんをコーヒーに誘ってもいいかな。直接ネックレスを返して、ちゃんとお詫びがしたいの」
意織は暗闇の中で目を開け、口元に冷たい嘲笑を浮かべた。
夏菜のやり口は決して巧妙とは言えない。男の庇護欲と罪悪感をくすぐっているだけだ。
だが厄介なことに、深はそういう手合いに滅法弱かった。
深が何か答えるより早く、意織は不意に寝返りを打ち、枕に手をついて上体を起こした。そして、そのままベッドサイドのランプを点灯する。
オレンジ色の光が一瞬にしてベッドの半分を照らし出し、同時に、意表を突かれた深の顔をも浮かび上がらせた。
「明日まで待つ必要はありません。今、聞いていますから」
意織は彼のスマートフォンに向かって、微塵の眠気も感じさせないはっきりとした声で言い放った。
「新谷さん、謝罪なら結構です。あなたが一度でも身につけたネックレスなんて、もう要りませんから。それから悪夢のことですが、私が怒る夢なんかより、お父様がどうやって亡くなったかを夢に見たほうが、少しは目が覚めるんじゃないですか」
電話の向こうは一瞬にして静まり返り、直後、激しく咳き込む音が響いた。
「意織!」
深は眉をひそめて素早く通話を切り、不快感を露わにして彼女を睨みつけた。
「そこまで棘のある言い方をする必要があるのか? 夏菜はまだ体調が万全じゃないんだぞ。それに、純粋にお前と和解したいと言っているのに」
「純粋?」
意織は布団を跳ね除けてベッドを降り、分厚い絨毯を裸足で踏みしめながら、彼を見下ろした。
「深、あなたは本当に目が節穴なの? それとも見えないふりをしているだけ? 夜中にわざわざ既婚男性に電話をかけてきて、本妻に謝りたいと泣きつく。こんな陳腐な茶番、ビジネスの世界でいくらでも見てきたでしょう?」
深も立ち上がった。ガウンの帯が少し緩み、引き締まった胸元が露わになる。
彼は意織よりも頭一つ分以上背が高く、顔を沈ませて立つその姿には、有無を言わさぬ圧迫感があった。
「あいつはただ純粋で、そこまで深く考えていないだけだ。三年前、新谷夏雄さんがいなければ、車の中で死んでいたのは俺だった。一ノ瀬家が新谷家に負った恩は、一生かかっても返しきれないんだよ」
