第1章
白原花視点
「白原様、この婚姻証明書――偽造ですね。再発行はできません」
市役所の窓口で、職員が私の婚姻証明書を机に投げつけた。
息が詰まる。信じられなくて、声が震えた。
「そんなはず……。確認、間違っていませんか?」
昨日、名義のマンション二件を陸原紀川に移す手続きをするつもりで家中を探したのに、婚姻証明書がどうしても見つからなかった。だから市役所へ来て、再発行を頼んだ。
――なのに返ってきたのは、こんな宣告。
「システム上、白原様は現在『未婚』です。ただし、証明書に記載の男性は『既婚』になっています」
職員は機械みたいな口調で言う。
胸の奥がどくん、と沈んだ。
「……じゃあ、その人の配偶者は誰なんですか?」
職員の視線が素早くモニターを走る。
「陸原紀川様の、法的に登録されている配偶者は――陸原園子様です」
その名を聞いた瞬間、胸を刃物で貫かれたみたいに痛んだ。骨に刺さるような痛み。
陸原園子。
陸原家の、いつも白いロングドレスを纏い、青白い顔をした儚げな養女。
父親同士が世交で、彼女の父が事故で亡くなったあと、陸原家が引き取ったと聞いている。
紀川が彼女を溺愛していることは知っていた。けれど私は、ただの兄妹だと思っていた。疑いもしなかった。
左手薬指のダイヤの指輪が、やけに冷たく見えた。
――全部、滑稽で、皮肉だ。
どうやって陸原家に戻ったのか、自分でもよく覚えていない。
ファミリーラウンジの大きな窓に近づいたとき、中から義母――平岡麗子の声が聞こえてきた。
「紀川、やっぱり心配よ。万が一、白原花が婚姻証明書が偽物だって知ったら……私たちに譲ってくれた不動産、取り戻したりしない?」
ドアノブに伸ばしかけた手が、空中で止まる。
「そこまで考えてられないよ、母さん」
聞き慣れた紀川の声は、疲れが滲んでいた。
「園子の病状が悪化してる。今は、彼女を少しでも幸せにするのが最優先だ。良くなったら園子とは離婚して、花とはちゃんと婚姻証明書を取り直す」
玄関の前で、血が凍った。指先が掌に食い込む。
平岡麗子がため息をつく。
「園子は私が育てたようなものよ。可哀想じゃないわけないでしょう。白原花の母親が残した事業と、株の信託さえなければ、とっくに別れさせてたわ」
「大丈夫。俺がうまくやる」
当たり前のように言い切る声が、刃みたいに胸を抉る。
――結婚したばかりの頃。
紀川は「婚後の契約書」を私に差し出してきた。結婚しても私の財産は私のもの、彼は一銭も触れない、と。
あのときの彼は優しく誠実に言った。
「白原花、俺が好きなのは君であって、君の家の資産じゃない」
感動して、私は契約書を破った。
そのうえ母が遺した大半の資産を、陸原家の事業に「援助」という形で注ぎ込んだ。
彼が出世し、事業が右肩上がりになっていくのを見て――私の幸せもやっと来ると信じていた。
なのに。
私はただ、彼らが階段を上るための踏み台だった。家族ぐるみで。
震えが止まらない。視界が暗く滲み、背骨から頭皮へ冷気が突き抜ける。
自分の愚かさが悔しくて、奴らの算段が許せなくて。
名ばかりの結婚。
――最初から最後まで、徹底した詐欺だ。
いい。いいわ。
そこまでやるなら、こっちだって容赦しない。
震える手でバッグからスマホを取り出し、深く息を吸って番号を押した。
「私名義で陸原紀川の一族に移してある資産、全部凍結して」
「ええ、本人への通知はいらない」
「だって、私たち夫婦じゃない。あれは私の個人資産だから」
通話を切り、髪と襟元を整えた。何事もなかった顔で、本邸へ入る。
リビングに入った瞬間、ソファにいる陸原園子が目に入った。
白いレースのネグリジェに、分厚いカシミヤのブランケット。枕に沈んだ青白い小顔が、いっそう可憐に見える。
紀川はその隣で器を持ち、スプーンで粥を一口ずつ冷ましては彼女の唇へ運んでいた。
見慣れた横顔が――別の女に、優しい。
平岡麗子は落ちたブランケットの端を丁寧に掛け直しながら、甲斐甲斐しく言う。
「寒くない? もっと厚いの持ってこようか?」
園子が小さく首を振り、か細い声で言った。
「大丈夫。お母さま、ありがとうございます」
そして粥を与えてくれる紀川を見上げ、睫毛を震わせる。
「お兄ちゃん、ごめんなさい。いつも迷惑かけて……」
「何言ってる」
紀川の声は低く甘い。
「ほら、ちゃんと飲め」
平岡麗子も頷く。
「そうよ、家族なんだから。あなたの体が一番大事なんだからね」
園子は天使みたいに笑った。
……そうよね。法的に『妻』なのは彼女なんだから。
笑い者は、私のほうだ。
「白原花? いつ帰ってきたの。音もしないで」
平岡麗子が私に気づくと、いつも通り当然の顔で命令した。
「園子、起きたばかりでちゃんと夕飯食べてないの。台所見て、消化のいい栄養のあるもの用意して」
昔なら、手元の仕事を全部放り出して作っただろう。
でも今、私の顔にあるのは冷たさだけ。
「何ぼーっとしてるの、早く!」
平岡麗子が苛立って急かす。
私はソファの三人を静かに見渡し、最後に平岡麗子へ視線を定めた。
「食べてないなら、それが私に何の関係があります?」
平岡麗子の表情が固まり、すぐに怒鳴り声へ変わる。
「白原花! 何言ってるの!? 園子はあなたの妹よ! 病気なのに、ご飯作らせて何が悪いの!」
「妹?」
首を傾げ、皮肉を含ませる。
「血、繋がってますか?」
視線が、無意識に紀川を掠めた。
紀川が眉をひそめ、器を置いて私を見る。水みたいに薄い目。
「白原花、どうした? 今日は機嫌が悪いのか?」
――今になって気づく。
その『心配』は、ただの取り繕いで、うんざりが混じっている。
「平気よ」
私は彼の視線を避け、無表情で言った。
「ただ、分からないことがあるの。私と陸原園子――どっちがあなたの『奥さん』に見える?」
空気が、凍りついた。
紀川の瞳に、一瞬だけ狼狽が走る。
平岡麗子は顔を真っ赤にして震える指を突きつけた。
「紀川! 見なさいよ! これがあなたの連れてきたいい嫁!? 園子は病気なのに、こんな言い方――!」
