第2章

陸原紀川の顔色も沈んだ。立ち上がって私の前まで来ると、場を取り繕うように言う。

「白原花、先に部屋で休め。ここは俺が――」

腕を取ろうと伸びてきた手を、私は身をひねって避けた。

くすり、と笑って距離を置く。

「いいよ。どうせここに、私の居場所なんてないし」

三人の顔がみるみる青くなるのを視界の端に捨てたまま、私は踵を返して階段へ向かった。

二段ほど上がったところで、背後から陸原園子の弱々しいすすり泣きが聞こえてくる。

「紀川……私、何か悪いことした? 花お姉さまを怒らせちゃったのかな……。だったら私、出ていく……。二人に迷惑かけたくない……」

結婚して一年。彼女は一度も私を「義姉さん」なんて呼ばなかった。いつだって「お姉さま」。

昔はただの照れだと思っていた。けれど――最初から、私と陸原紀川の関係を認める気なんてなかったのだ。

陸原紀川が慌てて宥める。

「何言ってる! ここはお前の家だ。どこにも行くな!」

平岡麗子も、胸が痛むほど優しい声で被せた。

「ばかね、変なこと考えないの。あなたのせいじゃないわ。礼儀も分からない人が、みっともなく騒いでるだけで――」

……こんなふうに、私を気にかけられたことなんて一度でもあっただろうか。

それでも私は、彼らが園子を妹として、娘として可愛がっているだけだと、自分に言い聞かせてきた。胸の奥がざらつくたび、「私が心が狭いんだ」と反省して。

違った。

反省すべきだったのは、最初から私じゃない。

私は振り返らず、足を速めて上階へ上がった。

寝室に戻った途端、糸が切れたみたいに力が抜ける。ドアに背を預けたまま、ずるずると絨毯へ座り込んだ。

自分で選んで並べた家具。整えたこの部屋。

あの頃の私は、この家に夢を見ていた。今はただ――滑稽で、皮肉で、笑える。

クローゼットを開け、黙って荷造りを始める。

どれくらい経ったのか。ドアをノックする音。

「白原花、俺だ」

陸原紀川の声。

私は答えない。

数秒の沈黙のあと、ドアが押し開けられた。

陸原紀川はフルーツの盛り合わせを持って入ってきた。私の好きなキウイと苺。

荷造りの最中の私を見て一瞬固まり、すぐにスーツケースを押さえて責めるように言う。

「ちょっとしたことだろ。なんで本気にするんだ」

……ちょっとしたこと?

心の中で苦く笑う。

彼はいつものように腕を広げ、抱き寄せようとした。いつも、こうして丸め込んできた。

でも今回は――迷いなく、その手を押し退けた。

宙で固まった腕。彼の顔をかすめる気まずさ。

数秒後、ゆっくり腕を下ろし、声を柔らかくする。

「まだ怒ってる? 母さんの言い方がキツかったのは分かる。でも悪気はないんだ。園子は体が弱くて情緒も不安定でさ。少し多めに気遣うのは当然だろ。気にするな、な?」

私は彼を見ず、平坦に言った。

「私に用?」

陸原紀川は数秒黙り、言いづらそうに口を開く。

「……白原花、俺のカード、凍結した?」

結婚してから、私の口座カードは親族共有に設定し、副カードの権限まで開けていた。

私の金を使うのが当たり前になっている男だ。凍結されれば真っ先に気づく。

「園子がさっき、ずっと泣いてて。バッグでも買って宥めようと思ったんだ」

いつものように手を取って、優しいふり。

「ただの小さな子だよ。もし何か気に障ることがあっても、少し譲ってやってくれ」

――この顔を、私は愛していた。

今は見知らぬ人みたいで、胸が冷えるだけ。

昼間、市役所で聞いた言葉が脳裏に燃え上がる。陸原紀川と陸原園子が、すでに入籍しているという事実。

名もない怒りが、後頭部へ突き上げた。

私は手を振り払った。

「どうして?」

陸原紀川が呆ける。

「……何が?」

「どうしてよ」

私は彼を睨み、一語ずつ噛みしめる。

「私の金で、あなたの愛人にバッグを買う理由がどこにあるの?」

陸原紀川の目が泳ぐ。

「白原花、正気か? 園子は妹だ!」

下手な芝居。今すぐ、全部吐き出してやりたくなる。

でも堪えた。

まだだ。

彼に渡した株も事業も、全部取り戻すまでは。ここで切れたら、この男は本気で金を掻っ攫って夜逃げしかねない。あんな連中を、安く済ませるわけにはいかない。

深く息を吸い、顔を平静に戻す。

「妹なら、あなたが自分の金で買えばいい。私の金は使い道があるの」

「使い道?」

陸原紀川の顔に苛立ちが浮かぶ。

「お前は家で不自由なく暮らしてるだろ。何に金が要るんだよ」

私は冷たく笑った。

「園子だって家で養われてるのに、彼女には金が要るんだ?」

陸原紀川が口を開きかけ、言葉に詰まる。

しばらくして、彼は私のスーツケースを見て、冷えた声で言った。

「今のお前、だいぶワガママになったな。実家に帰って数日、頭冷やせ」

――もう取り繕う気もないらしい。追い出しの言葉。

「ちょうどいい。私もそのつもり」

スーツケースを掴み、振り返らず部屋を出た。

階段を降りる途中、陸原園子が驚いた顔で私を見た。

「花、どこ行くの?」

わざとらしくスーツケースに手を伸ばし、目に涙を溜める。

「私のせいで、紀川と喧嘩したの……? 花、ごめんなさい。お兄ちゃんのこと、怒らないで……?」

私は冷たく言った。

「手を離して。じゃないと本当に、行かない」

陸原園子はすぐに手を離した。

そして、私の耳元へ身を寄せ、囁く。

「出ていったら、二度と戻ってこないで。紀川は、私だけのものだから」

いつもの儚げな顔とは別人の、歪んだ笑み。

「そう。お幸せに」

私は無感情に微笑み返し、陸原家を出た。

――白原荘園に戻ったとき、胸の中は苦く渦巻いていた。

母の葬儀も終わらないうちに父は再婚し、私は大喧嘩してこの家を出た。それ以来、二度と戻っていない。

荷物を抱えてリビングに入ると、暖炉の前で父の白原英樹と継母の林原雨子がワインを飲んでいた。

白原英樹は私を見るなり眉を寄せる。

「どうして戻ってきた。財産の分配は終わっただろう」

胸が沈む。二年ぶりでも、結局そこか。

林原雨子は私の荷物を見て、口元に嘲りを浮かべた。

「あら。名門に嫁いだ陸原奥さまじゃない。夜中に追い出されたの?」

私は無視して父を見る。

「言いに来たの。藤原家との縁談、受ける」

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