第4章

声のほうへ目を向けると、会客室のドア枠にもたれて立つ男がいた。

仕立てのいいダークグレーのスーツ。ネクタイはしていない。シャツの襟元は無造作に二つほど外れていて、くっきりした鎖骨が覗く。

背が高い。灯りが彫りの深い顔に薄い影を落とし、通った鼻筋と引き結ばれた唇が冷たく整っていた。深い瞳は、どこか漫然と――けれど逃げ場のない圧で、私を捉えている。

ただそこに立っているだけで、背中に寒気が走るほどの存在感。

藤原聡。

陸原紀川が掴んでいた私の手首の力が、驚愕でわずかに緩む。彼は藤原聡と私を見比べ、信じられない顔で口を開いた。

「婚約者? 藤原さん、何かの間違いじゃ……彼女は――」

「放して」

私は冷たく遮り、手首を引いた。

だが陸原紀川は刺激されたみたいに、逆に力を込めてくる。所有を誇示するように、骨が軋むほど強く。

「白原花、説明しろ。どういうことだ」

低い声の奥に、隠しきれない怒気と追及が滲む。

痛みで息が漏れた。手首が折れそうだ。

そのとき、藤原聡が動いた。

ゆっくりこちらへ歩いてくる。焦りもなく、乱れもない。

磨かれた大理石に革靴の音が、こつ、こつ、と一定のリズムで響く。その一歩ごとに、心臓の上を踏まれていくみたいだった。

――今、陸原紀川に私と藤原聡の関係を知られたらまずい。

資産はまだ回収しきれていない。ここで札を見せれば、あの一家は追い詰められた犬みたいに噛みついてくる。移される。消される。私を丸裸にされる。

私は顔を上げ、藤原聡の探る視線を正面から受け止め、先に言った。距離を置いた困惑の演技で。

「失礼ですが……人違いでは? 私、あなたを存じ上げません」

陸原紀川が目を丸くする。まさか私がそう言うとは思っていなかったのだろう。

藤原聡は私の前で足を止めた。私は見上げる形になる。

読めない黒い目が、私の腹の底まで覗き込んでくるようで、喉の奥がひりついた。それでも視線は逸らさない。

数秒、空気が止まる。

暴かれる――そう身構えた瞬間、藤原聡の口角が、ごくわずかに上がった。幻みたいに、すぐ消える笑み。

「そうか?」

淡々とした声。低く、艶がある。チェロの音みたいに胸の奥へ沈む。

「なら、私の勘違いだろう」

視線が落ちる。陸原紀川の手、私の手首へ。

冷気が走った。

「だが、人違いだとしても」

藤原聡の声音がさらに冷える。

「私の場所で女性に手を出すのは感心しないな。陸原紀川さん。礼儀はどこへ?」

言い終わるより先に、背後の黒服が二人、すっと前に出た。左右から陸原紀川の腕を押さえつける。

「何する! 放せ!」

陸原紀川は顔を赤くして暴れるが、鉄塔みたいな男たちはびくともしない。

片方が指を一本ずつ外し、私の手首を解放した。

白い肌に、赤い輪がくっきりと残っている。ぞっとするほど生々しい痕。

藤原聡の視線がその痕に一瞬留まり、瞳がさらに沈んだ。

「外へ」

静かな命令。たったそれだけで、逆らう余地がない。

「承知しました、先生」

陸原紀川は引きずられながら、なおも振り返って叫ぶ。

「白原花! 覚えてろ! お前の考えくらい分かってるんだ!」

声は遠ざかり、クラブの重い扉が閉まって遮断した。

廊下に残ったのは、私と藤原聡、そして無言の護衛だけ。

私は手首をさすり、低く言う。

「……助かりました。ありがとうございます」

藤原聡は礼に反応しない。ただ私を見ている。

鷹に睨まれた獲物みたいに、身の置き場がない。逃げ道が削られていく。

長い沈黙のあと、彼がようやく口を開いた。感情の読めない声で。

「白原さん」

名前を呼ばれただけで、心臓が縮む。

「縁談を受けたのに、なぜ彼の前で私を知らないふりをした」

軽い調子なのに、胸の奥がざわついた。波紋が広がって止まらない。

藤原聡が一歩近づく。距離が一気に詰まり、息が絡むほどになる。

清冽な木の香りに、淡い煙草の匂いが混ざる。強引に包まれて、背筋が粟立った。

「それとも」

彼はわずかに身を屈め、黒い目で私を縫い止めた。薄い唇が耳に触れそうな距離。熱い息が肌を撫で、肩が小さく震える。

「この芝居が、面白いか?」

危険で、魅力的で――息が苦しくなるほどの圧。

でも、この男の前で怯えたら終わりだ。握られる。弄ばれる。そういう種類の人間だと、本能が告げている。

私は動揺を押し殺し、その底なしの視線を受け止めた。

「藤原家の方、これは遊びじゃありません」

声は平らに。

「戦争です。私のものを取り返すための」

多くは言わない。要点だけでいい。藤原聡なら察する。

「陸原家は、母が遺した大半の事業を呑みました。名義は私の贈与や投資です。回収しきる前に関係を知られれば、あの男はすぐ資産を移し、消し、私を丸裸にする」

藤原聡の瞳に、わずかな興味の色が走る。彼は身を起こし、圧が少し引いた。

「だから、庇護が欲しい?」

低い声に、微かな遊び心。

「協力です」

私は言い直す。

「あなたも『相応しい妻』が必要でしょう。家の中で騒ぐ古参を黙らせるために。白原家の看板は落ちましたが、盾くらいにはなる」

利害を、真正面から並べる。媚びはない。取引の言葉だけ。

「だから純粋な契約にしたい」

私は続けた。

「婚前契約を結びましょう。私の財産は私、あなたの財産はあなた。互いに干渉しない。必要が済めば、円満に解消する」

静寂。

自分の鼓動が、耳の裏でうるさい。

こんな条件を突きつける女は、今までいなかったはずだ。

藤原聡がどう出るか――分からない。

長い沈黙のあと、彼は低く笑った。

耳に心地いいのに、余計に読めない笑い。冷たさが薄れたぶん、底の見えなさが際立つ。

前のチャプター
次のチャプター