第6章
胸の内で、冷たく嗤った。
――これが、彼の言う「愛」。私に対しても、陸原園子に対しても、安っぽくて笑えるほど軽い。
「もう、前みたいにはしないわ」
私は顔を上げ、彼を見据えた。波一つ立たない視線で。
「この家で私はあなたの妻。家政婦じゃない。陸原園子のことも、平岡麗子のことも、私には関係ない。私は私の暮らしをするだけ」
「わかった、わかった! 全部、君の言う通りにする!」
陸原紀川は矢継ぎ早に頷いた。私が翻意するのを恐れるみたいに。
彼は私の手からスーツケースを取り上げると、またあの作り物の柔らかい笑みを貼りつける。
「外、冷えるだろ。出るのはやめよう。使用人に何か温かいものを作らせる」
――勝ったつもりなのだ。空っぽの約束を数本ぶら下げれば、私をまたこの檻へ戻せる、と。
私は何も言わず、彼がスーツケースを元の場所に戻すのを見届けた。踵を返し、寝室を出る。
白原荘園へ戻って母の遺品を引き取るのは、ひとまず後回し。
今、優先すべきは陸原紀川を油断させること。
そして――私のものを、全部取り返すこと。
翌日。私は部屋に籠もり、ノートPCで資産移転の最終手続きを進めていた。
不意にスマホが鳴る。白原秋穂。
通話を滑らせた瞬間、こちらが一言も発していないのに、甲高く意地の悪い声が突き刺さった。
「へえ、お姉さま。結局また陸原家に尻尾巻いて戻ったんだって? 男がいないと生きられないの? 根性あると思ってたのに」
愉快でたまらない、という調子。たぶん林原雨子が『追い出されたのに自分から戻った』って筋書きを吹き込んだのだろう。
「私のこと、あなたに口出しされる筋合いはない」
冷たく返すと、秋穂は鼻で笑った。
「忠告してあげてるだけ。パパに約束したの、忘れないでよ。陸原紀川とグズグズして藤原さんの機嫌を損ねたら、パパに責められても私、助けてあげないからね!」
脅し混じりの声。
目に浮かぶ。得意げに顎を上げた顔。
きっと思っているのだ。今の私の逃げ道は、自分と母親の「慈悲」で用意された藤原家との縁談しかない、と。
私は小さく笑い、指先でキーボードを一つ叩いた。カチ、と乾いた音。
「白原秋穂。忘れてない? 私が嫁がなかったら――次はあなたよ」
電話の向こうが、ぴたりと静まる。
私はわざとゆっくり続けた。
「だから大人しくしてなさい。もしこの話が少しでもこじれて……たとえば私が藤原さんに、白原家にはもう一人、もっと『望んでる』娘がいるって『うっかり』話したら。どうなると思う? 誠意の証に、まとめて『迎える』って言い出すかもしれないわよ」
「なっ……なに言って……!」
秋穂の声が震え、泣きそうになる。
次の瞬間、癇癪混じりに叫んだ。
「白原花、あんた頭おかしい! バカじゃないの!」
「だから、口を慎めって言ってるの」
私は冷たく遮った。
「じゃないと――道連れにする」
通話を切り、その番号をブロックする。
ああいう相手に理屈は効かない。恐怖を突きつけるのが、いちばん手っ取り早い。
夕方。陸原紀川が帰ってきた。
今日は妙に早い。しかも両腕いっぱいに、シャンパンローズの大きな花束を抱えている。
差し出して、媚びるように笑った。
「仲直りの記念だ」
私は無表情で受け取り、玄関脇の空の花瓶に雑に挿した。礼の一言すらない。
陸原紀川の口元が一瞬ひくつく。だがすぐに表情を整えた。
彼は背後から私の腰を抱き、顎を肩のくぼみに乗せる。甘ったるい声。
「夜、何が食べたい? シェフに――」
言い終える前に、二階から甲高い悲鳴が落ちてきた。続いて、平岡麗子の取り乱した叫び。
「園子! 園子どうしたの!? 誰か来て!」
陸原紀川の顔色が変わる。私から手を離し、駆け上がった。
私はその場に立ったまま、瞼ひとつ動かさない。
――また、この手の芝居。
私と陸原紀川の空気がほんの少しでも戻りかけると、陸原園子は決まって「ちょうどいいタイミング」で具合が悪くなる。
私はゆっくり靴を履き替え、リビングへ。水を注いで一口飲む。
階段を駆け下りるバタバタという足音。
陸原紀川が、青白い顔で目を閉じた陸原園子を抱えて降りてきた。平岡麗子が後ろで泣き喚く。
「早く! 病院よ! 急に倒れたの!」
陸原園子は弱々しく彼の胸にもたれ、長い睫毛をかすかに震わせる。――その口元が、私に見えない角度でだけ、得意げに吊り上がっているのが分かった。
病人の皮を被れば、陸原紀川の意識も罪悪感も、自分に戻ってくる。
私はまた、背景に引き下げられる。そう信じているのだ。
陸原紀川は私の前で一瞬足を止めた。複雑な目を向け、何か言いかける。
その横から、平岡麗子が私を睨みつけて甲高く責め立てた。
「全部あなたのせいよ! 今日また園子を怒らせたんでしょ! あの子に何かあったら許さないから!」
私は淡く一瞥だけ返し、陸原紀川の腕の中の「昏睡」した女へ視線を移す。声は平坦。
「そんなに重いなら、救急車を呼べば? 抱えて走って遅れたらどうするの。救急のほうが確実でしょう」
冷水を浴びせたみたいに、空気が凍った。
陸原紀川の顔が歪む。平岡麗子は言葉を失った。
そして――昏睡しているはずの陸原園子の睫毛が、明らかに大きく震えた。
私は芝居に付き合う気もなく、水の入ったグラスを持ったままソファへ向かう。腰を下ろし、リモコンでテレビをつけた。
財経ニュース。眩い画面、整ったアナウンサーの声。
そのきらびやかさが、この家の茶番をいっそう滑稽に際立たせる。
私の無視は、どんな口論より彼らに効いたらしい。
視界の端で、陸原紀川は園子を抱えたまま立ち尽くし、進むにも戻るにもできない。
平岡麗子は怒りで震え、指先までぶるぶるしているのに、罵声すら続かない。
結局――陸原園子が先に折れた。
か細く目を開け、陸原紀川の袖をつまむ。蚊の鳴くような声。
「大丈夫……ちょっと眩暈がしただけ。病院はいい。みんなに心配かけたくないの」
怯えた目で、私を見る。被害者の仮面。
「ほらね! 全部あなたが家の空気をめちゃくちゃにするからよ!」
平岡麗子が、待ってましたとばかりに矛先を戻す。
私は視線すらくれず、リモコンを押した。テレビの音量を二つ上げる。
