第7章
陸原紀川の顔色は、雨雲みたいに重かった。
彼は私の冷え切った表情を見て、次に腕の中で楚々とした顔をしている陸原園子を見た。けれど結局、何も言わない。園子を抱いたまま、黙って階段を上がっていった。
分かっている。
私が、こいつらの茶番にもう乗らないと決めた――その瞬間から。
この戦争は、やっと本当の意味で始まったのだ。
二階はすぐ静まり返り、陸原紀川も降りてこない。
私はテレビを消した。
リビングは、息が止まりそうな沈黙に沈む。
平岡麗子は、きっと可愛い嫁の看病にでも行ったのだろう。空気の中に残ったのは、シャンパンローズの甘ったるい香りだけ。鼻の奥を撫でるみたいにまとわりつき、吐き気を誘った。
寝室には戻らない。私はそのまま書斎へ向かった。
――今夜ここへ戻ってきた、本当の目的。
陸原紀川の家の「帝国」は、私の資金が流れ込んでから膨張した。
この数年、彼が動かした案件と帳簿の多くは、母が遺した企業群と切っても切れない糸で繋がっている。
取り返すのは、不動産や株だけじゃない。
私の金で稼いだ利益を、一銭たりとも逃がさない。元本も利息も、全部奪い返す。
雲の上から叩き落として――何も残させない。
書斎のドアは鍵がかかっていなかった。
陸原紀川は私に防壁を作らない。彼にとって私は、恋に溺れて盲目的に従う女で、ビジネスの駆け引きなんて理解できない存在なのだろう。
デスクのノートPCを起動し、パスワードを打ち込む指が、一瞬だけ止まる。
試したのは――陸原園子の誕生日。
ぱっと画面が明るくなり、デスクトップが開いた。
胸の奥で、冷たい笑いが転がる。
やっぱりね。
私には薄っぺらい優しさを並べて、園子への甘やかしは本物。分かりやすすぎる。
私はハンドバッグから、あらかじめ用意していた極小のUSBを取り出して差し込んだ。陸原紀川の警戒心は驚くほど薄い。核心の帳簿、海外信託の入出金、表に出せない灰色の契約書まで――電子データのまま、このPCに詰め込んでいる。
暗号化フォルダを探し当て、以前ファイル整理を手伝ったときに覚えたパスで解除する。
拍子抜けするほど簡単だった。
大量のデータがコピーされ、進捗バーがじわじわ伸びていく。
私は冷たい革椅子に背を預け、PCの小さな唸りを聞きながら神経を尖らせた。肩がこわばり、息が浅くなる。
そのとき――
二階で、ぎ、と木床が鳴った。
反射的に背筋が伸びる。心臓が喉までせり上がった。
足音は書斎へ向かってこない。廊下の奥、陸原園子の部屋の方だ。
次いで、陸原紀川の声。意図的に落とした、宥めるような低音。
「……もう泣くな。医者も言っただろ。お前は情緒が揺れただけで、体は大丈夫だって」
「でも……苦しいの」
園子の声は、か細く、委屈そうに甘い。
「花お姉さま……もう私を許してくれないのかな。きっと、私が二人の関係を壊したって……」
「考えすぎだ。お前のせいじゃない」
陸原紀川の声には一瞬、苛立ちが混ざる。けれどすぐ柔らかくなった。
「俺が悪かった。うまく片付けられなかった。……ほら、寝ろ。俺がここにいる。どこにも行かない」
拳を握りしめる。胃の奥がぐらりと揺れた。
進捗バーはまだ途中。今、動けない。
なのに二階の会話は、耳の中で羽音を立てる蝿みたいにまとわりついてくる。気持ち悪い。息をするだけで汚れる。
すぐに、慰めの調子が変わった。
くすっ、と。園子の押し殺した笑い。
続いて、衣擦れのささやかな音。ベッドが沈む、柔らかなきしみ。
「今夜……本当に、帰らないの?」
園子の声が、ねっとりと媚びを帯びる。
「帰らない」
陸原紀川の声が掠れた。熱を含んで、湿る。
「ここで、お前といる」
それから先は、天井一枚挟んでいても生々しく届いた。
園子の甘い喘ぎ。陸原紀川の低い囁き。
私が整えた家で。
名ばかりの婚姻の寝室の隣で。
こんな――汚いことを。
嫉妬なんて、欠片もない。
骨の髄まで冷える嫌悪と、軽蔑だけ。
こいつらは吸い付く寄生虫だ。私の血を啜りながら、勝者のつもりでいる。
その瞬間、ふっと閃いた。
私は音を殺して立ち上がり、幽霊みたいに書斎を出た。
忍び足で階段を上り、二階へ。
陸原園子の部屋の扉は、わずかに開いている。艶めいた隙間から、声がさらに濃く漏れた。
「陸原紀川……ねえ。愛してるのは、私? それとも、あの女?」
「当たり前だろ。俺が好きなのはお前だけだ、バカ」
陸原紀川は恥もなく続ける。
「白原家の金が必要なだけだ。完全に産業を握ったら、全部話してやる。そしたら――お前は、もう誰にも遠慮しなくていい」
「早く……。私、あなたの本当の花嫁になりたい……」
感動的な純愛劇、ね。
私は冷たい壁に背を預け、無表情のままスマホを持ち上げた。録音を起動する。
暗い廊下で、画面の微かな光だけが私の顔を照らす。
汚れた音も、卑しい誓いも、ぜんぶ――はっきり入っていく。
五分、録った。
中の喘ぎが高く乱れたところで、静かに停止。
一秒も無駄にしない。私は踵を返し、書斎へ戻る。
PC画面を見ると、コピーの進捗バーは最後まで伸び切っていた。
USBを抜く。操作履歴を丁寧に消し、元通りになったのを確認してから電源を落とした。
寝室へ戻り、USBと録音の入ったスマホを、肌身のポケットに収める。
窓の外は深い闇。隣室の気配は、もう静まっていた。
陸原紀川は思っているのだろう。
優しい夜で『病弱な妹』を宥め、ついでに私という愚かな妻もまた掌に戻した、と。
でも知らない。
今この瞬間、温もりに溺れているその手で――自分自身と陸原一族の終わりの鐘を鳴らしたことを。
そして彼が口にした「唯一の愛」が、奴らを恥辱の柱へ打ちつける最後の釘になることを。
翌日。
部屋に籠って最後の海外資産移転申請を片付けたころ、スマホの画面がふっと明るくなった。
知らない番号からのSMS。命令みたいに短い。
「今夜8時。運転手が迎えに行く」
署名はない。けれど、分かる。藤原聡。
私はその文面を見つめ、口元だけで冷たく笑った。
