第8章

彼は私に都合がいいかどうかを訊くことすらせず、勝手に決めてきた。

――まあ、いい。

むき出しの支配欲のほうが、陸原紀川の薄っぺらい優しさより、よほど手間がない。

私は一文字だけ返した。

「いい」

夕暮れ時。私はあえて、保守的なのに上質さが際立つ黒のロングドレスに着替え、きちんとしているのに主張しすぎないメイクを施した。

階段を下りると、陸原紀川がリビングで経済誌を読んでいた。どうやら夕食でも一緒に、というつもりで待っていたらしい。

私の格好を見た瞬間、彼は一拍遅れて立ち上がり、眉をひそめた。

「出かけるのか?」

「ええ。友人の集まり」

淡々と答え、余計な説明はしない。

陸原紀川の瞳に、不快と疑念がさっと走る。私が何もかも彼中心で回すのが当たり前になっていた男だ。突然の『自立』は、彼にとって制御不能を意味する。

「誰だよ。俺、聞いてない」

一歩詰めてくる。

「白原花、せっかく仲直りしたのに、お前……」

うんざりして、言葉を切った。

「陸原紀川。私はただ集まりに行くだけ。浮気しに行くわけじゃない」

視線を逸らさず、きっぱり言う。

「それくらいの信頼もないなら、もう話すことはない」

強い口調に、彼は言葉を失った。かつて従順だった私が、こんなふうに言い返すとは思っていなかったのだろう。

私は彼の顔色を見もしないで玄関へ向かう。外には黒いベントレーが、音もなく停まっていた。

車は滑るように走り、やがて厳重な警備の私有地に入った。密やかな面会かと思ったのに、運転手に案内された先は、灯火の眩しい宴会ホール。

香水と絹の匂い。グラスが触れ合う乾いた音。ざわめき。

集まっているのは、東京の金融界とヤクザ界で名の通った顔ばかりだった。

その瞬間、理解する。

これは「友人の集まり」なんかじゃない。藤原家の内部晩餐会だ。

――藤原聡は、私を試している。

思考が巡るより早く、藤原聡が人波を割って現れ、まっすぐ私の前に立った。

黒のベルベットスーツ。身体の線を綺麗に拾い、危うい気品を余計に際立たせる。

彼は自然に腰へ腕を回した。親密なのに、情欲の温度はない。むしろ、所有の宣言。

「遅れるんじゃないかと心配した」

耳元で低く囁く。熱が耳朶を撫でた。

私は逃げない。むしろ彼の腕に自分の腕を絡め、社交用の微笑を作る。

「お待たせいたしました、藤原聡」

私の落ち着きに、彼の目がわずかに細くなる。短い賞賛。

藤原聡に連れられ、ホールの中心へ。

近づくほど、さっきまでの喧噪が潮が引くように消えていく。代わりに刺さるのは、好奇と査定の視線。

「皆さん」

藤原聡の声は大きくないのに、妙に通る。

「紹介します。私の婚約者、白原花です」

――空気が揺れた。

一気にざわめきが立ち、すぐ抑え込まれる。波紋だけが広がっていく。

特に年配の古参たちの視線は露骨だった。人ではなく、値札の付いた品物でも見るみたいに。

私は怯まない。背筋を伸ばし、柔らかいのに距離を置いた笑みのまま、グラスを掲げて会釈した。

白原家で叩き込まれた所作が、こういう場所で私を守る。

媚びる必要はない。

藤原聡の隣に立つに足る女だと示せばいい。

満足したのか、藤原聡の腕に少し力が籠もった。

数人の中枢と挨拶を交わしたあと、私はトイレを口実に席を外す。

静かな廊下の角で、不意に声をかけられた。

「白原さん?」

振り向くと、身なりの整った中年男が立っていた。村坂。陸原紀川の商売敵。

陸原紀川に大口の案件をえげつない手で奪われ、それ以来、因縁があると聞いている。

「村坂先生」

私は微笑んで頷いた。

村坂は困惑を隠せないまま、私とホールの方向を見比べる。

「まさか、ここでお会いするとは。てっきり私は……」

私がまだ陸原の『奥さん』だと思っているのだろう。

「昔の話です」

シャンパンを軽く揺らし、目を合わせる。

「村坂先生。陸原紀川への恨み、私より薄いとは言いませんよね?」

村坂が一瞬固まり、次に目に商人の光が宿る。

「……どういう意味です?」

私は一歩近づき、声を落とした。

「陸原紀川の帝国は砂の上です。そして私は、その砂を崩せる『もの』を持っている」

間を置き、突き刺す。

「彼が落ちたあと、分け前にあずかる気は?」

村坂の顔に衝撃が走る。

私みたいな女が、ここまで言うとは思わなかったはずだ。

沈黙。計算。

そして最後に、欲が勝つ。

「光栄です」

村坂はグラスを持ち上げた。

「明日、秘書から連絡させます」

「良い取引を」

私は笑い、シャンパンを飲み干した。

宴が終わったのは深夜だった。

藤原聡は自ら私を送ると言い、車内は密閉された静けさに満ちた。

彼の清冽なウッドの香りが逃げ場なくまとわりつき、息をするたび胸の奥がざわつく。

「今日の君は良かった」

藤原聡が言う。

「契約の範囲です」

私は平静に返す。

「違う」

彼がこちらへ顔を向ける。闇の中で黒い瞳だけが異様に光っていた。

「君は自分の武器の使い方を知っている。村坂も含めてな」

心臓がきゅっと縮む。見られていた。

車は陸原家の門前で止まった。だがロックは外れない。

藤原聡が身を寄せ、片腕を背もたれに置く。私をドアとの間に閉じ込める形。圧が、一気に濃くなる。

「君は毒を塗った刃だ、白原花」

低く掠れた声。初めて名前で呼ばれ、背筋が粟立つ。

「美しくて、鋭くて、刺す場所も分かっている」

私は冷静を装って視線を返す。けれど鼓動は、制御不能なほど速い。

危険だ。この男は。

藤原聡の指先が、私の唇をなぞった。ひやりとした感触に、身体が震える。

「協力が楽しみだ」

顔が近づく。鼻先が触れそうな距離。

キスが来ると思った瞬間、彼は唇のすぐ手前で止めた。灼ける呼吸が肌を焦がす。

「思った以上に、投資しがいのある『資産』だ」

低く笑い、彼は何事もなかったように身を引いた。

カチ、とロックが外れる音。

「おやすみ。私の婚約者」

私は振り返らずにドアを開け、あの虚飾の牢獄へ足早に入った。

扉を閉め、冷たい板に背を預けて初めて気づく。

手のひらが薄く汗ばんでいる。心臓が、まだうるさいほど跳ねていた。

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