第9章
リビングは真っ暗だった。私は灯りをつけず、窓の外から差し込む月明かりだけを頼りに、家具の輪郭をなぞる。
あのベントレーはとっくに走り去ったのに、藤原聡の気配だけがまだ鼻先に残っている気がした。別れ際の低い声と一緒に、胸の水面へ静かな波紋を落として。
あの男は、洗練された獣だ。欲も野心も、隠そうともしない。
二階へ上がろうとした、そのときだった。
廊下の灯りがぱっと点き、続いて階段口に平岡麗子の姿が現れる。ナイトローブ姿のまま、いかにも今しがた外の車の音で目を覚ましたのだろう。こちらが私だと分かった瞬間、その顔に露骨な苛立ちと意地の悪さが広がった。
「よく帰ってこられたものね。こんな夜更けまで、どこの馬の骨とも知れない男とふらふらして。白原家のしつけって、その程度なの?」
甲高い声が、しんとした空気を切り裂く。
言い返す気にもなれなかった。私は黙ってヒールを脱ぎ、そのまま脇を抜けて上へ行こうとする。
その無視が、麗子の癇に障ったらしい。
彼女は早足で階段を駆け下りると、いきなり腕を振り上げ、私の頬めがけて叩きつけてきた。
「今日こそ、あんたの母親の代わりに叩き直してやるわ。この恥知らず!」
勢いの乗った一撃だった。長いあいだ溜め込んでいた憎しみまで、その手に乗せるみたいに。
――でも、もう怖くはない。
平岡麗子の掌が頬に届く寸前、私はほとんど反射で身をひねり、同時に足をほんの一歩だけ後ろへ引いた。
空を切った手が勢いのまま前へ流れる。体勢を崩した麗子の足先が、私が脱いだばかりのヒールに引っかかった。
次の瞬間。
どんっ、と鈍い音。続いて、耳をつんざく悲鳴が響いた。
「っ、痛っ……! 腰が……!」
平岡麗子は大理石の床に無様に投げ出され、顔を歪めたまま転げ回る。
「何なのよ! 白原花、このクズ! よくも手を出したわね! 紀川! 早く降りてきなさい! あんたの嫁が人殺しよ!」
私はその場に立ったまま、冷たく彼女を見下ろした。けれど顔には、ちょうどいい具合の狼狽だけを浮かべる。
「お義母さま……大丈夫ですか? わ、私、そんなつもりじゃ……」
心の中では、ただ笑っていた。
私を打てると思うなんて――甘い。
麗子はなおも起き上がろうとしていたが、その前に、磨き上げられた黒い革靴がすっと彼女の前に止まった。
いつの間に現れたのか、黒いスーツをまとった長身の男が、私の前を塞ぐように立っている。壁のように無駄のない体躯。地面に這いつくばる麗子を見下ろす眼差しに、感情の色は一切なかった。
「平岡麗子様。どうか言動をお慎みください」
平坦で、冷えた声だった。
麗子は一瞬ぽかんとしたあと、顔を吊り上げる。
「誰よ、あんた! うちのことに口を出さないでちょうだい! さっさと出ていきなさい!」
男はその喚き声を相手にもしない。ただわずかに身を引き、私へ向けて一礼した。
「白原さん、ご無事ですか。若様のご命令で、あなたの警護に参りました」
若様。
――藤原聡の差し金か。
胸の内で、私は静かに得心した。
どうやら彼は、私を見込みのある投資先と見なしただけではなく、監視役までつけてきたらしい。
けれど、悪くない。むしろ都合がいい。面倒がひとつ減る。
「大丈夫よ。ありがとう」
そう返すと、男――佐藤は小さく頷き、再び平岡麗子へ向き直った。
「若様より、白原さんの身の安全を最優先で確保するよう命じられております。いかなる理由があろうと、彼女に危害を加えることは許されません」
有無を言わせない迫力に、平岡麗子は一瞬だけ泣き喚くのも忘れたらしい。私と佐藤とを交互に見比べ、その目にむき出しの動揺を浮かべる。
そのとき、二階の寝室の扉が開く音がした。騒ぎを聞きつけた陸原紀川が、慌ただしく階段を駆け下りてくる。
「母さん! どうした!」
床に倒れた平岡麗子と、私の前に立つ佐藤を見た途端、彼の顔色が変わった。すぐさま駆け寄り、麗子を起こそうと手を伸ばす。
「何があったんだ」
「紀川、ちょうどよかったわ!」
平岡麗子は泣き声を張り上げ、私と佐藤を指差した。
「この女が私を突き飛ばしたのよ! そのうえ、どこの誰かも分からない男まで家に連れ込んで、私を脅してきたの! 陸原家も地に落ちたものだわ!」
その瞬間、陸原紀川の視線が鋭く私を射抜く。責めるような、怒りを孕んだ目だった。
「白原花、どういうことだ」
私が口を開くより早く、佐藤が一歩前へ出る。
「陸原さん、言葉にお気をつけください。白原さんは何もしていません。平岡様がご自身で足を滑らせただけです」
「お前は何様だ」
紀川の眉間に深い皺が寄る。
「ここで口を挟む権利があるのか?」
用心棒ごときに口を返されたことで、余計に面子を潰されたのだろう。怒気が露骨に濃くなる。
「母さん、立てるか。とにかく落ち着いて――」
場を収めようとした紀川の手を、平岡麗子は乱暴に振り払った。
その目が、何かを思い出したようにぎらりと光る。
「そうだわ、紀川。聞きなさい」
腰の痛みすら忘れたみたいに身体を起こし、彼女は私を睨みつけた。
「今日、村田さんたちと買い物に行ったの。気に入った宝飾品があって、私名義の不動産ファンドから支払いをしようとしたら――どうなったと思う?」
胸の奥が、わずかに沈む。
それでも表情は動かさない。
紀川は苛立たしげに顔をしかめた。
「母さん、今はそんな話をしてる場合じゃ――」
「黙りなさい!」
鋭く遮った麗子の目は、血走るほど真っ赤だった。
「銀行に言われたのよ。そのファンドは凍結されてるって。あんたに渡したはずのマンション二件だって、先週の時点で名義が白原花に戻ってるって! 白原花、あんた、取り戻したの!?」
最後のひと言は、ほとんど絶叫だった。
空気が、ぴたりと凍る。
陸原紀川の顔から怒りが消えた。代わりに浮かんだのは、剥き出しの衝撃と恐怖。
彼は弾かれたように私を振り向き、今にも食らいつきそうな目で睨みつける。
「……花」
喉がひりついたような、掠れた声。
「母さんの言ってること……本当なのか?」
ようやく、来た。
ただ、平岡麗子の強欲がこんなにも早く尻尾を掴ませるとは思っていなかっただけだ。
紀川の拳は、骨が浮き出るほど強く握り締められている。
「白原花、答えろ。本当なのか!」
そこに、これまでの優しげな仮面はもうない。あるのは、むき出しの追及だけ。
私はすぐには返事をしなかった。
まず彼の背後にいる平岡麗子を見た。勝ち誇った、下卑た顔。
それから、ゆっくりと視線を紀川へ戻す。
次の瞬間、目の奥がじわりと熱を帯びた。涙が今にもこぼれそうに滲む。けれど、落とさない。
「紀川……」
震える声に、失望をたっぷり滲ませる。
「あなたの中で、私があなたにしてきたことって……結局、家とお金だけだったの?」
かすかに笑って、首を横に振る。自分を嘲るように。
「私は、愛してたから全部差し出したの。あなたも私を愛してくれてるって、ずっと信じてた。でも違ったのね。あなたとお義母さまにとって私は――ただの財布だった」
最後のひと言は、囁きみたいに静かだった。
それでも刃のように鋭く、陸原紀川のいちばん痛いところへ、まっすぐ突き刺さった。
