第3章 瀬央さん、あなたは自由です
御影星奈はバーを後にした。
張り詰めていた気力が、この瞬間、ついに尽く崩れ落ち、心はズタズタに切り裂かれた。
夜は次第に更け、夜風が吹き抜ける。女の全身を、寂寥感が包み込んでいた。
彼女は自嘲気味に口角を上げた。だが、自己憐憫に浸る間もなく、背後からハイヒールの甲高い音が聞こえてくる。
「御影様! 待ってください、そんなに早く行かないで!」
恨みがましさと荒い息遣いが混じった女の声。
御影星奈が声に足を止めると、江ノ島美波がようやく追いついてきた。彼女は半ば腰をかがめて息を切らし、落ち着いてからようやく体を起こす。
江ノ島美波の両目は真っ赤で、大泣きしたことが明らかだった。
実情を知る御影星奈の瞳には、一抹の動揺すら浮かばない。なにしろ、クズ男の居場所を占った時点で、この恋が相手の浮気で終わることは分かっていたのだから。
「御影様、もしかして、彼が浮気してるってとっくに知ってたんですか?」
そう言ううちに、江ノ島美波の瞳にはまた霧が立ち込め始めた。
彼女は童顔で、自分に不釣り合いな化粧をしているせいで、かえって奇抜に見える。
ハイヒールを履いて御影星奈の前に立っても、なお半頭分ほど背が低い。
御影星奈が何も言わないでいると、江ノ島美波はなりふり構わず大声で泣き出した。
その泣き声に、通りすがりの人々が次々とこちらへ視線を向ける。御影星奈は頭痛をこらえるように眉間を揉んだ。
「場所を変えましょう」
江ノ島美波に連れられてやってきたのは、K市にある別のバーだった。テーブルいっぱいに酒を注文すると、彼女はだらしなく床に座り込み、黙々と酒を呷り始める。
飲みながら、ぽろぽろと涙をこぼす。
それでいて、御影星奈に酒を注ぐことは忘れなかった。
彼女は顔を真っ赤にして酔っ払い、声を詰まらせる。
「私、彼と五年も付き合ってたんです。彼は名家の跡取りで、ご両親は私を気に入らなくて、息子に釣り合わないって……。私、本当に本当に彼のことが好きで、辛いことがあっても言わなかった。そうすれば、きっと私のことを愛してくれるって思ってたのに、なのに、浮気なんて!」
言い終えると、江ノ島美波はまたぐいっと一杯飲み干した。
泣きながら、笑っている。
御影星奈の手の中のグラスはすでに空になっていた。複雑な思いを抱えながら、何気なく尋ねる。
「これから、どうするつもり?」
江ノ島美波はげっぷを一つした。
「もうみっともなく彼に執着して、ヨリを戻そうなんて思いません。実家に帰って家業を継ぎます! 彼には手の届かない、金持ち女になってやるんです!」
「御影様、こっそり教えますけど、うちの父、J市にいっぱい家を持ってて、貯金もゼロがいっぱいついてるんですよ!」
御影星奈は「……」となった。
江ノ島美波とは似たような境遇だが、この点だけは共感できない。
彼女は失恋しても帰る家があり、継ぐべき家業がある。しかし、自分は?
離婚したら、借金を抱えたボロボロの道観を継ぐしかないのだ。
御影星奈は無表情で数杯の酒を呷った。現実はこれほど残酷で、人と人との差はこういうところに現れる。
二人は夜更けまで飲み続けた。
江ノ島美波は泥酔し、立つことすらできず、泣き疲れてすでに眠ってしまっている。
御影星奈はまだ平気で、少し頭がふらつく以外に不調はなかった。
だらしなく床に転がっていびきをかいて寝ている江ノ島美波を見てしばし無言だったが、結局、慈悲の心で彼女をホテルに連れて行くことにした。
ホテルに着くと、目を覚まして騒ぎ出し、酒乱になった女を見て、御影星奈は明日、江ノ島美波に追加料金を請求しようと決めた。
ひとしきり騒動が収まったのは、朝の六時だった。
御影星奈は少し仮眠を取ってから市役所へ離婚手続きに行こうと決めたが、目を閉じて数分も経たないうちに、携帯が激しく震えだした。
着信表示は、瀬央千弥。
今夜の真心を踏みにじられ、今の御影星奈の心は死んだ灰のようだった。
彼女は表情を変えずに隅へ移動し、電話に出る。
彼女が口を開く前に、相手は立て板に水のごとく、まくし立ててきた。
「御影星奈、綾小路澈の腕が折られたそうだ。お前がやったのか? 伽耶ちゃんが家に帰ってからずっと体調が悪くて、今は高熱で目を覚まさない」
「御影星奈、なんて悪辣な女なんだ」
一言一句が刃物のように御影星奈の身を切り裂く。彼女は低く笑い声を漏らした。
ひとしきり笑い終えてから口を開く。
「瀬央千弥、時々思うわ。誰かに頼んで、私に呪いでもかけさせたんじゃないかって」
「あなたに七年間も、馬鹿みたいに尽くさせるような呪いをね」
「私にそんな大層な力があるなら、いっそ殺して気晴らしした方がましじゃない? 彼らが何か後ろめたいことでもしたんじゃないかって、どうして訊いてあげないの?」
御影星奈の嘲るような冷たい声に、瀬央千弥は面白くない気持ちになった。
次の瞬間、御影星奈は続けた。
「朝八時、市役所での離婚、忘れないで」
『ツー、ツー』という切断音を聞き、男の顔は暗く陰鬱になった。
御影星奈が自分から電話を切ったのは、これが初めてだった。
瀬央千弥は苛立ちから一睡もできず、御影伽耶のベッドのそばで時間を待ってから家を出た。
今日は快晴だった。
御影星奈は時間通りに市役所の外で待っていた。
際立って美しいその容姿に、通りすがりの人々が次々と振り返るが、彼女はまるで気づかないようだった。
五分後。
一台の黒いマイバッハが、市役所の前に静かに停まった。
瀬央千弥が車から降りてくる。仕立ての良い高級スーツを身にまとい、すらりとした長身に、冷厳な顔立ち。
彼は人込みの中で一際目立つ御影星奈をすぐに見つけた。
二人は言葉を交わすことなく、前後して市役所に入り、離婚届の列に並んだ。
もうすぐ自分たちの番という時、男が突然口を開いた。
「御影星奈、よく考えたのか? かつて俺に結婚を迫ったのはお前だ。今、離婚を切り出すのもお前。婚姻を子供の遊びみたいに、人をもてあそぶ手管か?」
瀬央千弥の眼差しは深く、不快な詰問の色を帯びていた。
かつて彼と御影伽耶は相思相愛で、もうすぐ結ばれるところだったのに、御影星奈が横槍を入れて引き裂かれたのだ。
お爺様が死をもって脅し、彼に御影星奈を娶るよう強いた。最終的に、彼は妥協した。
「瀬央千弥、私も被害者だったっていう可能性はないかしら? あなたの伽耶ちゃんにでも訊いてみたら? まあいいわ、今更そんなことを言っても意味がない。弁護士に作らせてた離婚協議書はもう止めにしていいわ。今日、離婚届が受理されるんだから、あんなもの意味ないもの」
御影星奈が言い終わると、ちょうど二人の番が来た。
職員が二人の身分証を確認し、定例の質問をする。
「お二人とも、お考えはまとまりましたか? 判が押されれば、離婚は成立します」
御影星奈は一切の躊躇なく頷いた。一方、瀬央千弥は険しい顔で御影星奈を見つめ、最終的に彼も頷いた。
手が下ろされ、判が押される。
今日は御影星奈の二十二歳の誕生日であり、同時に彼女と瀬央千弥の離婚記念日でもあった。
手の中の離婚届を見つめると、胸に込み上げる切なさよりも、安堵の方が大きかった。
二人は市役所を出た。御影星奈は突然振り返り、瀬央千弥に言った。
「自由よ、瀬央さん」
彼女の七年間の片想いは、ここに幕を下ろした。
これをもって、瀬央千弥とは終わりだ。
瀬央千弥は色の深い瞳で御影星奈と見つめ合った。その一瞬、彼は言いようのない苛立ちを感じた。
女はすでに階段の下まで降りていたが、何かを思い出したようにまた振り返る。
瀬央千弥は御影星奈が後悔したのかと思った。
だが、相手は彼をじっと見つめ、真剣に言った。
「元夫婦のよしみよ。今日の帰り道は三角高架道路を迂回して。不幸を避けられるわ」
瀬央千弥は「……?」となった。
これもまた、気を引くための新しい手口か?
彼は眉をひそめ、その両目は氷のように鋭くなった。
「御影星奈……」
