第8章 破れた道観を継ぐ
綾小路澈は、なぜ鬼になったというのに窒息感を覚えるのか理解できなかった。
初めて、彼は御影星奈の恐ろしさを実感した。
「お、お前、どういう意味だ?」
「言葉通りの意味よ」
御影星奈の顔に浮かんだ笑みは、目の奥までは届いていない。彼女は首を傾げ、悪霊に問いかけた。「彼を地獄に落としたい?」
年配者の間では、こんな言い伝えがある。
善人は天国へ、悪人は地獄へ。
綾小路澈のような悪逆非道、極悪非道な人間は、阿鼻地獄に落ちるべき存在だ。
悪霊が考える間もなく、御影星奈はすでに決断を下していた。
「私は冥府の者じゃないから、あなたの行く末を決めることはできないわ」
綾小路澈が喜ぶ暇もなく、次の瞬間、彼は恐怖と驚愕に目を見開いた。
御影星奈は手に力を込め、冷たい表情で言った。
「だから、地獄に落ちて畜生道に放り込まれるくらいなら、いっそ死んだ方がマシよ」
「罪のない猫や犬に迷惑をかけることもなくなるしね」
綾小路澈は最後の言葉すら口にすることなく、一筋の青い煙となってこの天地の間に消え去った。
悪霊は呆然と御影星奈のそばに漂っていた。
凶悪!
それが彼の御影星奈に対する第一印象だった。
御影星奈は手を引き、気だるげに悪霊に目をやった。彼女が口を開く前に、悪霊が先んじて言った。「お嬢さん、どうぞ。俺の仇は討てました……ただ、妹のことがまだ心配で」
それは彼がこの世に残した唯一の肉親だった。
綾小路澈にいじめられてからというもの、妹は重度の鬱病を患い、今もなお完治していない。
悪霊は御影星奈に世話を頼みたいと思っていた……たとえ、ただ一目見てくれるだけでもいい。
彼の纏う煞気はかなり薄れ、なかなかの美丈夫の顔が露わになった。
御影星奈が空中に符を描くと、次の瞬間、陰鬱な風が吹き荒れ、びゅうびゅうと唸りをあげ、すべてのものが静止したかのようだった。
漆黒の巨大な門が虚空に出現した。地獄へと通じる門だ。
悪霊は生前は善人だったが、鬼となってからは人の命を奪ってしまった。相手が極悪非道の大悪党であっても、彼が人を害したという事実は変わらない。
この世に絶対的な公平など存在しない。
転生を望むなら、地獄という道しかないのだ。
「占ってあげたわ。あなたの妹さんの後半生は平穏無事で、運命の人にも巡り会える」
「あなたも真面目に過ごせば、また妹さんのそばに戻れるかもしれないわよ」
悪霊は御影星奈を深く信頼していた。
彼女のその言葉で、たちまち肩の荷が下りた。彼は御影星奈に見守られながら地獄の門へと足を踏み入れ、その姿が消えた瞬間、再び風が吹いた。
御影星奈はホテルに泊まっていた。
寝る前に、携帯の未読メッセージとメールを読んだ。どれも昨日、誕生日を祝ってくれた人たちからのものだ。
その中の一通のメールが、御影星奈の特に注意を引いた。
差出人は清虚真人。
御影星奈の師匠である。
メールにはまず誕生日の祝いの言葉が述べられ、次に道観の継承権問題について触れられていた。
御影星奈はとっくに道観が古びて借金を抱えていることを知っており、継承する覚悟もできていた。
しかし、師匠からこうもはっきりと言われると、やはり辛いものがある。
他の人は離婚したら億万の家産を継ぐというのに、自分はどうか? 待っているのは借金まみれの道観だ。
メールの最後で、師匠は彼女が瀬央千弥と離婚し、情劫を破ったことを祝っていた。
御影星奈は「……」となった。
チッ。
ぐっすりと眠り、御影星奈が起きたのは昼もとうに過ぎた頃だった。
携帯にはすでに多くの着信履歴が残っていた。
御影家の人から三十数件、瀬央千弥から二件、残りは見知らぬ番号からだった。
御影星奈は折り返す気はなかった。
彼女はのんびりと身支度を整え、昼食のために外出した。
食事を注文したところで、また御影家から電話がかかってきた。
御影星奈は通話ボタンを押した。
「御影星奈! 何百回電話しても出ないつもり? いい度胸じゃない!」
御影の母の声はひどく甲高く、電話の向こうから時折、御影伽耶がなだめる声が聞こえてくる。
御影星奈は受話器を耳から遠ざけ、少し苛立った。
「用があるなら早く言って」
粗野な言葉遣いは、さらに御影の母の不快と嫌悪を掻き立てた。
彼女は、自分がこんな娘を産んだとは到底思えなかった。養女の伽耶ちゃんの方がよほど物分りが良い!
「御影星奈、それが私に対する口の利き方? 聞くけど、千弥さんと離婚したって本当? あなた、行動する前に考えないの? あなたねえ……」
御影の母がまくし立てるのを聞いて、御影星奈は頭が痛くなった。
彼女は眉間を揉み、冷たい声で言った。「御影奥様、以前ご自分で言ったじゃないですか。私が外で野垂れ死にしようがあなたには関係ないって」
御影の母はぐっと言葉に詰まった。
確かにそう言ったが、あれは腹立ち紛れに言ったことだ。
この娘は好ましくないが、それでも実の子なのだ!
「御影星奈、あなた……」
「用がないなら切るわよ」
「待ちなさい! 御影星奈、今日、綾小路家の息子の葬儀があるの。すぐに帰ってきて、私たちと一緒に行くのよ!」
命令口調に、御影星奈はさらに苛立ちを募らせた。
彼女は言った。「一緒に行く? 一緒に拍手して『死んでせいせいした』って言いに行くのかしら?」
そう言うと、御影の母が激昂するのも構わず、御影星奈は電話を切った。
食後、御影星奈は江ノ島美波と会って部屋を見て回り、問題ないと判断すると契約書にサインして支払いを済ませた。
今や、全身全霊で残っているのは千円足らず。
御影星奈はこれまでの人生でこれほど貧乏になったことはなかった。今の彼女の最優先事項は、大きな仕事を受けることだ。
どうやってライブ配信を始めようか考えていると、瀬央千弥から電話がかかってきた。
彼は住所を教えろと言い、プレゼントを買ったからアシスタントに届けさせるとのことだった。さらに、家にはまだ彼女の物があるから、いつ都合がいいか取りに来てほしいと尋ねてきた。
「いらないわ。そのまま捨ててちょうだい」
女の冷たく無関心な態度に、瀬央千弥はさらに眉をひそめた。
彼は窓辺に立ち、外の大樹を眺めながら、言いたい言葉を喉に詰まらせた。
その時、瀬央舞香が病室から駆け出してきて、兄さん、と呼んだ。
瀬央千弥が少し待てと言おうとした矢先、電話の向こうからすぐにツーツーという無機質な音が聞こえてきた。
御影星奈が電話を切ったのだ。
得体の知れない苛立ちがこみ上げてきた。
「お兄ちゃん、お母さんが目を覚ましたわ……ここは私が看てるから、澈さんの葬儀に行ってきて」
瀬央舞香は最後のあたりで声を詰まらせた。
まさか綾小路澈にあんな事故が起こるなんて、誰が予想できただろうか。昨日はあんなに元気だったのに、夜になって突然車に撥ねられて死ぬなんて。
別の遊び仲間の話によると、当時、綾小路澈は狂ったようにあの通りへ水を買いに行くと聞かなかったらしい。
彼は綾小路澈のすぐ後ろを歩いており、二人の距離は一メートルもなかった。気がついた時には、綾小路澈が車に数十メートルも撥ね飛ばされるのを目撃したという。
体は変形し、即死だった。
その死に様は、あまりにも無惨だった。
瀬央千弥は心身ともに疲れ果てていた。
もし昨夜、瀬央千弥の母が階段から落ちなければ、彼が綾小路澈について行っていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。
ふと、ある言葉が脳裏に蘇った。
——「それに、あんたがもうすぐ死ぬことも知ってる」
これは昨夜、御影星奈が綾小路澈に言った言葉だ。
瀬央千弥は眉をきつく寄せた。彼は、御影星奈が内情を知っているに違いないと感じていた。もしかしたら、綾小路澈の死は彼女の予見通りだったのかもしれない。
だが、なぜ彼女は冷ややかに傍観していたのだろうか?
