第11章
「――聞こえなかった?」
雪奈は鼻で笑うと、一歩、間合いを詰めた。
「『「暁」シリーズ』のデザイン案、私の部屋の引き出しに入れてたよね。あの日、持って行き忘れて……今日取りに戻ったら、いつの間にかあんたの“作品”になってるってわけ?」
「姉ちゃん、誤解だよ……?」
白井桃奈は瞬く間に目尻を赤くして、声を震わせた。
「そのデザイン画、もともと私が描いたんだよ。姉ちゃんがデザイン好きなのは知ってる。でも、自分の作品が認められないからって、私が盗んだって決めつけないで……」
言葉に合わせるみたいに、涙が瞳に滲む。まるで、天地がひっくり返るほどの被害者面だった。
「姉ちゃんがずっと私のこと好きじゃないのも分かってる。私がパパとママの愛情を奪ったって思ってるんでしょ。今度は凌輝兄まで奪ったって……でもね、姉ちゃん。嫉妬するのは勝手だけど、私の作品を姉ちゃんのものだなんて言わないでよ」
「嫉妬……?」
雪奈は、その面の皮の厚さに一瞬言葉を失った。次の瞬間、喉の奥から笑いが込み上げてくる。
「白井桃奈。いまここ、私たち二人だけだよ。いい加減、白々しい芝居はやめたら? 都合よく話をひっくり返すのも大概にして」
言い終えるより早く、階段のほうから、どたどたと足音が降ってきた。
雪奈の肩がぴくりと跳ね、反射的に振り向く。
小林凌輝だった。下の言い争いを聞きつけたのだろう、淡々とした顔で降りてくる。
雪奈は胸の内で冷たく嗤った。さっきまで桃奈は、凌輝がいないと口を揃えていたくせに。
男は部屋着姿。いつもの近寄りがたい雰囲気はそのまま、白井桃奈の泣きそうな顔を見た瞬間だけ、眉がわずかに寄った。
「今度は何だ」
視線が雪奈に落ちる。露骨な苛立ち。
「桃奈はやっと体調が戻ったばかりだ。お前も少しは大人しくできないのか」
「……小林凌輝。いま私が“騒いでる”って言った?」
雪奈は白井桃奈を指さし、言葉を噛みしめるように一語ずつ落とした。
「この子が、私のデザイン画を盗んで、自分の名前で出した。なのに私が嫉妬してるって言いがかりまでつけてきた。あなた、目が見えないの? 耳も聞こえないの?」
言い切った瞬間、凌輝はまるで冗談でも聞いたみたいに、鼻で笑った。
「『「暁」シリーズ』は桃奈の作品だ。国際デザイン協会からも、一緒に仕事をしたいという話が来ている。雪奈、お前はまともにデザインを学んだことすらないだろ。桃奈と肩を並べられる理由なんて、どこにもない」
冷たい視線が、刃みたいに頬をかすめる。
「嫉妬にも限度がある。……この三年、お前は家の中で主婦をしてただけだ。ほかに何をやった?」
雪奈の表情が、少しずつ固まっていく。
伏せた瞳の奥で、何かがすっと冷えていった。自嘲気味に、ふ、と笑う。
――ああ。彼の目には、私は三年間ずっと、価値のない“役立たず”だったんだ。
雪奈は小さく頷き、怒りが極まって、逆に笑みが浮かんだ。
かつて夢中になったはずの、その顔が、今はひどく遠い。他人の顔にしか見えない。
次の瞬間――雪奈は腕を振り上げ、全身の力を込めた。
「パァン!」
乾いた音が弾け、平手が小林凌輝の頬に叩きつけられた。
時間が止まったみたいだった。
凌輝は顔を横に向けたまま動かない。白い肌に、指の跡がみるみる浮かぶ。
漆黒の瞳に走ったのは、まず困惑。続いて、底知れない嵐みたいな怒りが渦を巻く。
雪奈を、信じられないという目で見据えた。
白井桃奈は口元を押さえて声を上げる。
「姉ちゃん! 凌輝兄を叩くなんて……!」
雪奈は彼女を一瞥すらしない。ただ凌輝だけを睨み、薄く嗤った。
「この一発は、あなたが分別もないから」
言い捨てて、踵を返す。これ以上ここにいることが耐えられなかった。
白井桃奈の横をすり抜けようとした、そのとき。
相手がふらりと雪奈のほうへよろけ、わざとらしく肩をぶつけてきた。
雪奈の足が止まる。顔だけを向けると、白井桃奈の瞳の奥で、得意げな色が一瞬だけきらりと光った。
雪奈は口角を引き上げ、ひどく冷たい笑みを作る。
「演技、上手だね。続けなよ。でも――盗んだものは、いつか必ず吐き出すことになる」
それだけ言うと、もう振り返らずに出た。
別荘を出て、雪奈はタクシーを拾い、そのまま市立病院へ向かった。
数日前、腰のあたりをぶつけたのに加え、気持ちが塞ぎ込んで一度検査を受けていた。今日は結果を受け取る日だ。
プリントが出るのを待つ間、壁にもたれ、窓の外の鉛色の空を見上げる。
手のひらに、まだ残っている気がした。凌輝の頬の温度。叩いた瞬間の、皮膚の感触。
――これで、借りも貸しもない。残るのは嫌悪だけ。
結果を受け取り、目を落として確認する。大きな異常はなし。胸の奥の息が、ようやくほどけた――そのとき。
少し離れた場所から、聞き慣れた、吐き気がするほどか細い声がした。
「凌輝兄、ほんとに大丈夫だよ……ただ心臓が少し苦しいだけで、わざわざ再検査しなくても……」
雪奈が顔を上げると、やはりそこにいた。
小林凌輝に付き添われた白井桃奈、その横に白井夫婦まで揃っていて、循環器内科のほうへ向かっている。
白井母が先に雪奈を見つけ、顔色を険しくした。
「雪奈? どうしてここにいるの。桃奈が今日再検査だって知って、わざとついて来たの? いい加減にしなさい」
白井父も眉を寄せ、釘を刺すような目つきで言う。
「雪奈。妹は体が弱いんだ。姉なら少しは大目に見てやれ。家をひっくり返すまで騒ぎたいのか」
雪奈の顔から温度が消える。反論しようと息を吸ったが、小林凌輝の視線までがこちらに滑ってきて、薄い嘲りが混じった。
雪奈は検査結果の紙をきゅっと握り締める。
――仲のいい家族。完璧な絵面。
可笑しくて、説明する気持ちすら湧かなかった。
最初から罪人扱いしてくる相手に、何を言う?
雪奈は口元だけで笑い、背を向けて歩き出す。
「姉ちゃん……」
白井桃奈が、怯えたふりの声で呼び止める。
「パパとママと凌輝兄のこと、怒らないで……みんな私が心配なだけなの。私、検査してくるね。すぐ終わるから、みんなの時間も取らせないよ……」
雪奈は足を止めない。
白井桃奈の瞳の奥に、暗い色がすっと差す。次の瞬間、胸元を押さえ、さらに弱々しい声を作った。
「ママ……ちょっと苦しい。トイレ、行きたい」
「一緒に行くわ」
白井母は即座に支え、トイレのほうへ連れていく。すれ違いざま、雪奈を睨みつけるのも忘れない。
トイレの中。
個室に人影がないのを確かめると、白井桃奈の「か弱さ」は一気に薄れた。
鏡の前で口紅を塗り直しながら、隠す気もない得意げな声で言う。
「姉ちゃん、見て。凌輝兄と結婚して三年でも、結局あの人の心はずっと私のもの。パパとママが可愛がるのも私。……それに、姉ちゃんの作品だって、今は私のになった」
雪奈は手を洗っていたが、水を止め、鏡越しに桃奈を見る。
「奪ったものを握って、熱くないの?」
「奪った……?」
白井桃奈はくすっと笑い、距離を詰めて声を落とした。
「奪ったって言うなら、元々姉ちゃんのものじゃないとね。姉ちゃん。あなたの全部、本当は私のものなの。婚約も、凌輝兄も、白井家のお嬢様って立場も。……何を根拠に私と争うの?」
一言一言が、狙って心臓を刺してくる。
雪奈は手を拭く動きを止めた。指先に力が入り、ペーパータオルがくしゃりと歪む。
鏡越しに、冷たく言い返す。
「言いたいことは、それで終わり?」
白井桃奈は無邪気で甘い笑顔を作る。
「姉ちゃん、そんな目で見ないで。怖いよ……もしパパとママと凌輝兄が、姉ちゃんがまた私をいじめてるの見たら――」
言い終える前に、白井桃奈の目がきらりと動いた。
そして、わざとらしく一歩後ろによろけ――背中が「ドン!」と個室の扉にぶつかる。同時に、痛そうな声を上げた。
直後、外から白井母の切羽詰まった足音が駆け寄ってくる。
「桃奈? 桃奈、どうしたの!」
