第12章
「ママ……お姉ちゃんが、桃奈を突き飛ばした……」
白井桃奈の声は今にも泣き出しそうに震え、涙は合図もなくぽろぽろと落ちた。彼女は腰のあたりを押さえ、顔色を真っ青にして、痛みに耐えきれないとでも言うように身をかがめている。
白井母が駆け込んできた。ちょうど、個室の扉にもたれて今にも崩れそうな白井桃奈と、洗面台の前に立つ雪奈が目に入る。雪奈の表情は、氷みたいに冷たかった。
その瞬間、白井母の怒りは一気に沸点へ達した。
「雪奈! あんた、どれだけ冷たいの! 妹を死なせたいの?! そこまで追い詰めて満足なの!」
叫ぶなり、白井母は目を真っ赤にして突進し、雪奈の袖を掴んで乱暴に引っ張った。雪奈は抵抗する間もなく、トイレの外へ叩き出される。
「……っ」
押し出された雪奈はよろけ、数歩たたらを踏んで壁に手をつき、なんとか体勢を立て直した。
顔を上げた、その視界の端。白井母の背後で、涙をぶら下げた白井桃奈が――挑発するように笑っていた。
にこりと目尻の涙を指先でちょん、と拭い、勝ち誇った目で雪奈を見つめてくる。
ほらね、雪奈。誰も、あなたの味方なんてしない。
雪奈が一瞬、言葉を失ったところへ、騒ぎを聞きつけた白井父と小林凌輝も早足でやって来た。
白井桃奈が壁に手をつきながら、足を引きずって出てくるのを見るなり、二人の顔色が変わる。白井父は慌てて駆け寄り、桃奈の肩を支えた。
小林凌輝の表情は、すっと沈む。
彼はほとんど反射的に、隣で呆然としている雪奈へ視線を向けた。声は冷え切って、重い。
「雪奈。……言ったよな」
それを聞いて、雪奈はゆっくりと顔を向けた。
視線がぶつかった瞬間、彼の瞳にあったのは――濃い倦怠感だけだった。
壁に当てた手が、ぎゅっと強くなる。雪奈は目を伏せ、ふっと口元だけで笑う。
「小林凌輝。あなた、どっちの目で私が何かしたのを見たの?」
そして、顔を上げ、一言一言噛みしめるように言った。
「そもそも私は何もしてない。……仮に、してたとして。あなたに私を責める資格、あるの?」
思いがけない反撃に、小林凌輝は一瞬固まった。言葉が喉に詰まり、何も返せない。
雪奈は袖についた埃をぱんぱん、と軽く払う。白井桃奈には視線すらくれず、白井母の横をすり抜けて、そのまま立ち去ろうとした。
だが、数歩進んだ背中に鋭い怒鳴り声が飛ぶ。
「待ちなさい! 今日は桃奈に謝るまで帰らせない!」
白井母は大股で追いすがり、雪奈の腕を掴もうと手を伸ばす。
雪奈はその動きが視界に入ると、身を翻してひらりとかわした。
掴むはずの手は空を切り、数歩先で宙に止まる。白井母の顔が引きつり、体裁を潰された怒りがさらに燃え上がった。彼女は執拗に前へ回り込み、雪奈の行く手を塞ぐ。
「謝れ、ですって?」
雪奈は足を止める。白井桃奈の、得意げなくせに被害者ぶった視線を一度なぞり、最後に白井母を見た。
「自分で芝居打って、人に罪をなすりつけるような人に? 謝れって言われて、私が従うと思う? そんな価値、あるの」
「……っ、あんた!」
白井母は怒りで全身を震わせ、今にも平手打ちでもしそうな勢いで睨みつけた。
「もういい」
小林凌輝は眉間に皺を寄せたまま、短く切り捨てる。耐え忍ぶ気配が、もう限界だった。
「雪奈。今すぐ病院から出ろ。二度と桃奈の前に現れるな。……次は、俺がどうするか保証しない」
雪奈は鼻で笑い、白井母を押しのけるようにして歩き出した。振り返りもしない。
「ママ、桃奈は大丈夫……お姉ちゃんも、わざとじゃなかったと思うの。そんなに怒らないで。体壊したらどうするの?」
白井母が雪奈の背中に向かって罵声を浴びせ続けるのを見て、白井桃奈は唇をきゅっと結び、母の服の裾を引いて小さく揺らした。
それで白井母の怒りは少し落ち着き、振り返って桃奈の手を握り、悔しそうに言う。
「桃奈……あんなふうに傷つけられても、まだかばうのね。あんたのお姉ちゃんが、あんたの半分でも器が大きければ、私だってこんなに腹を立てないのに」
そう言って、白井母は桃奈の手の甲をそっと撫でた。
「……本当に、可哀想に」
「ママ。みんなが守ってくれるから、桃奈はちっとも可哀想じゃないよ」
白井桃奈は口元をゆるめる。言葉は母に向けながらも、その柔らかく、少し照れた視線は向かいの小林凌輝に落ちていた。
小林凌輝はそれに気づき、わずかに顎を引いた。
家へ戻ると、白井桃奈はソファに腰を下ろし、胸の奥の重さがすうっと消えるのを感じた。雪奈が孤立して言葉を失った顔を思い出すだけで、胸がすく思いだった。
スマホが一度だけ鳴った。反射で手に取り、画面を見ると、表情がわずかに動く。
そのときだった。
「桃奈、果物洗ってきたわよ。」
ぼんやり画面を見ている間に、白井母が果物の皿を持って近づいてくる。白井桃奈は慌ててスマホを伏せ、ふと思い出したように立ち上がり、母の腕を取って座らせた。
「ママ、先に座って。相談したいことがあるの」
白井桃奈は目をきょろりとさせ、声を落として母の耳元へ囁く。
話を聞き終えた白井母の顔に、驚きが広がった。娘を見つめ、最後は困ったように口を開く。
「桃奈……それは、ちょっと……」
「大丈夫だよ、ママ。相手のこと、ちゃんと調べてあるから。お姉ちゃんが損するようなことにはならないって」
白井桃奈は母の肩に顎を乗せ、甘えるように続ける。
「それに、うまくいけばみんな得するの。私も得するし、お姉ちゃんだって一気に立場が変わるでしょ? ママは連れて行くだけでいいんだよ。いいことしたってことになるじゃん」
白井母は唇を結び、数秒迷った。けれど期待に満ちた娘の目に負け、最後には頷く。愛おしそうに鼻先を指でちょん、とつついた。
「……分かった。あなたの言う通りにする。だってママは、一番あなたが可愛いんだもの」
「やっぱり」
白井桃奈は満面の笑みを作り、目を伏せて、瞳の奥の得意げな色を隠した。唇の弧だけが、するりと上がる。
……
雪奈が家に着いたのは、それから少ししてだった。検査結果の紙を置き、ソファに沈む。スマホを取り出すと、小野朝香から心配のメッセージがいくつも届いていて、胸の奥がほんのり温かくなった。
返信しようとした、そのタイミングで、見知らぬ番号から着信が入る。
雪奈は少し迷った末、通話に出た。
「雪奈……ママよ……」
耳元に流れ込んできたのは、白井母の声だった。雪奈は思わず目を瞬く。
口調は異様なほど柔らかい。どこか、わざとらしい媚びまで混じっている。
「さっき病院でね、ママも頭に血が上っちゃって……気にしないで」
雪奈は眉を寄せたまま、黙って聞いていた。
「それでね」
白井母は一拍置き、少し哀しげな声色を作って続ける。
「あなたのお父さんが、生前すごく大事にしてたものがあるの。あなたに渡すつもりだったって。……それを、私、見つけたのよ。いろいろあっても、やっぱり家族だから」
また小さな間が空き、ため息が混じった。
「ママもね、いろいろ考えたの。あなたの実のお父さんはもういないし、あなたと私だって親しくない。でも、生きてる人は生きていかないといけないでしょう? だから、一度ご飯でも食べない? それ、返したいの。ちゃんと話も……ね? いい?」
雪奈の胸が、かすかに揺れた。
今さら、こんなに都合よく優しくなるなんて。
「……どこで?」
考えた末、雪奈は場所だけを尋ねた。
「あとで住所送るわね。今夜7時。待ってるから」
雪奈が承諾したと分かると、白井母の声は急に弾んだ。
通話を切り、雪奈は画面を見つめる。ほどなくして、白井母から住所が届いた。
有名なレストランだった。
