第13章
夜七時。レストランの個室。
白井母は早くから待っていた。テーブルには、目にも舌にも上品そうな料理がいくつか並んでいる。
雪奈が入ってくるなり、彼女は満面の笑みを貼りつけ、やけに親しげに手を取って席へ誘導した。そして、まるで宝物でも扱うみたいに、ベルベットの小箱をそっと雪奈の前へ押し出す。
「ほら、これでしょ? お母さんがちゃんと預かってたのよ」
雪奈が蓋を開けると、そこにはアンティークの銀の懐中時計が静かに横たわっていた。時計の蓋には細かな装飾が施されている。父が生前、肌身離さず持ち歩いていた——あの時計だ。
雪奈はそれを持ち上げ、冷たいケースを指先でなぞる。胸の奥に、言葉にならないものが渦を巻いた。
「……ありがとう」
懐中時計を箱に戻し、鞄へ収める。
「何言ってるの。もともとあなたのものよ」
白井母は笑みを深め、わざわざ自分の手で茶を注いだ。
「さ、まずお茶でも。ここのお茶、香りがいいのよ」
澄んだ湯気がほのかに匂い立つ。雪奈は湯呑みを持ち上げ、唇に当てて小さく一口だけ含んだ。
それを見届けた白井母の笑いは、さらに濃くなる。雪奈は懐中時計に視線を落としたまま、何も言わなかった。
——そのとき。
個室の扉が、いきなり乱暴に押し開けられた。
入ってきたのは、やや太った中年男。脂っぽい目が個室を一周し、次の瞬間、露骨に雪奈の身体を舐めるように見回した。
「白井さん、この子が娘さん? いやぁ、実際に会ってみると、写真で見るよりずっと可愛いじゃないか」
雪奈は固まったように男を見る。ねっとりした視線が絡みついてきて、眉が勝手に寄った。
「……お母さん、この人、誰?」
「雪奈、紹介するわね。有名なプロデューサーの高橋さんよ」
白井母は立ち上がり、そう言い終えると男へ向き直る。
「高橋プロデューサー、じゃあ二人でゆっくり話して。私はもう行くわね」
その一言で、雪奈の頭の中がすっと冷えた。
——そういうことか。
雪奈は立ち上がる。懐中時計を握る手に力が入りすぎて、金属が軋みそうだった。白井母がそそくさと出ていこうとする背中を見据え、歯を食いしばって、言葉を刻む。
「……今日私を呼び出した本当の目的、これ?」
白井母の背が、ぴくりと強張る。その反応が、かえって滑稽だった。
自分が馬鹿だっただけだ。あの人にとって「娘」は白井桃奈ただ一人。自分を気にかけるはずがない。
白井母は扉に手をかけたまま振り返り、笑顔を崩さない。
「雪奈、お母さんだってあなたのためよ。高橋プロデューサーはお金も力もある人。あなたが一緒になれば、生活に困ることはないし……妹のためにもなるでしょ?」
そう言い捨てて出ていこうとするのと同時に、高橋は待ちきれないとばかりに身を乗り出した。
雪奈は反射的に一歩下がり、スマホを取り出して声を張る。
「高橋プロデューサー。白井さん」
声量は高くない。けれど、氷みたいに冷たかった。
「さっきから今までの会話、全部録画しました。この動画、警察に渡したら? それともネットに流したら? どうなると思います?」
言い終えた瞬間、個室の空気が凍りつく。
高橋の下卑た笑みはぴたりと固まり、伸ばしかけた手が宙で止まった。
雪奈の目に浮かぶのは、露骨な嘲り。
母親をそこまで疑いたくなかった。けれど、念のため——そう、ほんの少しだけ警戒しておいた。まさか、それすら正解だったなんて。
白井母は目を見開き、雪奈を指さして甲高く叫ぶ。
「私をはめたの!?」
「はめた?」
雪奈はスマホを仕舞い、鞄と懐中時計を掴む。冷たい笑みが漏れた。
「あなたたちのやってることに比べたら、百分の一にもならない」
扉へ向かって一歩踏み出した、その瞬間——視界がぐらりと歪んだ。
天地がひっくり返るような眩暈。雪奈は思わずよろめき、前へ数歩もつれる。そこへ高橋が機を逃さず、どたどたと駆け寄って抱き留めた。
「離して……!」
振りほどこうとするが、眩暈が波みたいに押し寄せ、抵抗する力が抜けていく。額にじわりと汗が滲んだ。
——どうして、こんな……。
「保険、かけといてよかったわ」
扉口にいた白井母が、雪奈の顔に走った恐怖を見て、どこか満足げに息を整える。そして大股で近づき、雪奈のスマホをひったくった。
指紋でロックを解除し、録画データを削除する。終えると、そのまま鞄の中へ乱暴に放り込んだ。
それだけやると、彼女は何も言わず、雪奈に微笑みかけて——迷いなく背を向け、去っていった。
雪奈の胸が、ずしんと沈む。
テーブルの上。飲みかけの茶が、半分残っている。
——お茶。
視界が霞み、身体の奥から今まで知らなかった熱が湧き上がった。高橋が腰を抱え込み、ソファへ引きずろうとする。
雪奈は歯を食いしばり、最後に残った理性と力だけを頼りに、習い覚えた動きで腰に回った手を掴む。ぐっと捻り上げた。
力加減などできる状況じゃなかった。
ぱきり、と小さな嫌な音。
次の瞬間、耳を裂くような悲鳴が上がる。
腰を押さえつけていた力がふっと緩んだ。雪奈は鞄を引っ掴み、ふらふらと個室を飛び出す。
非常口へ。
重たい防火扉を押し開けると、廊下は滲んで形にならない。ただ一つの思いだけが彼女を支えていた。
——止まるな。捕まるな。
どれだけ走ったのか。何階降りたのか。最後は転がり落ちるように、人気のない清掃用具置き場の踊り場へ辿り着いた。
隅へ身を縮める。全身が熱い。残った意識が深海で沈んだり浮いたりするみたいに、ぶつぶつ途切れる。
数秒か、数十秒か。震える手でスマホを取り出した。
視界がぼやけて、画面が読めない。
最初に思い浮かんだのは小野朝香。だが今夜は接待で、電源を切っている。
連絡先を滑らせると、見慣れた名前が飛び込んできた。
小林凌輝。
指が画面の上で止まる。ぶるぶると震えた。
——だめ。頼っちゃだめだ。
なのに身体は言うことをきかない。理性が崩れかける。しかも上の階から、重い足音が近づいてくるのが分かった。
高橋が追ってきた——!
一方、別荘。
小林凌輝が扉を開けると、リビングは真っ暗だった。
もう深夜だ。使用人は帰っている。
最近は、どれだけ遅くなっても雪奈が灯りをつけてソファで待っていた。帰宅して、暗い家に一人で足を踏み入れることなどなかった。
昼間、病院で起きたこと。雪奈の、意地を張ったような問い詰め方。それを思い出すだけで、胸の奥がざらつく。
苛立ちを押し殺すように、彼は照明のスイッチを入れた。
ぱちっ、と光。
——結局、スマホを取り出してしまう。
連絡先から雪奈を探し、通話を押した。
階段室。
雪奈は虚ろに画面を見つめていた。次の瞬間、スマホがぶるっと震え、着信音が静かな廊下にやけに大きく響いた。
その音を聞きつけたのか、反対方向へ行きかけていた足音が止まり、こちらへ走ってくる。
雪奈は飛び上がりそうになり、慌てて音量を切る。指がもつれて、ほとんど反射で通話に出てしまった。
「小林凌輝……助けて……」
