第2章

すらりとした背中が、不意にぴたりと止まった。

革靴が階段を強く打つ音。続いて小林凌輝が振り返り、数段 내려りてくる。

見下ろすような視線が雪奈を射抜いた。彼が彼女の前で、これほど濃い感情を露わにしたのは初めてだった。

傍から見れば、いつもと大差ないように見えるかもしれない。

けれど彼は、一度だってこんな目で彼女を見たことがない。

濃い眉がきつく寄る。顎の線はわずかに力を帯び、鋭く張りつめた。声には、怒りよりもなお強い不可解さが滲む。

「……何て言った?」

まるで彼女が目の前で別人にでもなったみたいに、彼はこめかみへ手をやり、自分の耳がおかしくなったのではないかと確かめるような仕草まで見せた。

雪奈は必死に呼吸を整え、わざとゆっくりと言葉を紡ぐ。

背筋を伸ばし、最後の矜持を守るように。

「私たち、もう離婚できるって言ったの」

また、沈黙。

やがて小林凌輝は低く笑い、わずかに首を傾けた。さっきまで張り詰めていた気配が、ふっと緩む。

その緩みがかえって、あからさまな苛立ちを際立たせていた。

「誕生日を一緒に過ごせなかったくらいで、そこまで騒ぐのか?」

彼はそのまま彼女の前まで来た。落ちる影が雪奈をすっぽり包む。

「前みたいに……おとなしくしていられないのか?」

雪奈はたまらず、かすかに苦笑した。

言いたいことなら、いくらでもあった。

これまで彼は何度も約束を破った。けれど雪奈は、一度だって責めたことがない。彼が仕事に取り憑かれた人だと知っていたし、その成功のためなら自分が引くのは当然だと思っていたから。

だけど真実を知ってしまった今となっては、彼の言う『徹夜の緊急会議』が、実のところ白井桃奈と夜通し電話をする時間だったのだと思うと、皮肉を通り越して吐き気すらした。

それに、彼女がなぜこんなにも傷ついているのか、本当に分からないのだろうか。

白井桃奈にあれだけ好き放題言われたあとで、なお彼女と一緒に彼に尽くせとでもいうのか。そうしなければ『おとなしくない』になるのか。

もう言い争う気力すらない。ただ、一刻も早く終わらせたかった。

「冗談で言ってるんじゃないわ。あなたのほうから教えて。いつ離婚するつもり?」

雪奈は掌に爪を食い込ませる。痛みが意識を引き戻し、どうにか涙を押しとどめた。

顔を上げ、彼をまっすぐ見据える。

「白井桃奈が帰ってきたのよ。今離婚しないなら、いつするの?」

「……それが理由か」

声が低すぎて、そこに混じった困惑を雪奈は聞き取れなかった。

さっきまでこみ上げていた涙は、もう不思議なくらい引いている。ただ、おかしくてたまらなかった。

「小林社長ともあろう人が、愛してもいない女を妻の座に置いて、本当に好きな女は外で浮気相手扱いさせるつもり?」

言い終わるより早く、顎に痛みが走った。

小林凌輝の大きな手が彼女の顎を掴み、親指が頬を押さえる。その仕草には露骨な威圧があった。

「お前が何を勝手に思い込んでるのか知らないが、あのとき祖父は言ったはずだ。お前が唯一の小林夫人だと。誰が戻ってこようが関係ない」

雪奈は無理やり顔を上げさせられ、白い首筋がぴんと張る。

「おじいさまはそうおっしゃったわ。でも、あなたも本当にそう思ってるの?」

おじいさまは、浮気までしろとは言っていない。

小林凌輝は一瞬だけ動きを止めた。何かを察したように、その手がゆっくりと下へ滑っていく。細い首筋をなぞり、服の襟元へ入り、鎖骨の上に落ちた。

「祖父はもう一つ言っていた。早く子どもを作れ、とな」

声が低く沈む。妙に甘く、耳に絡みつくような響きだった。

「お前が言いたいのはそれか? 離婚を持ち出して俺を脅すつもりか。俺がお前との子どもを作らないから、外に女がいるとでも?」

雪奈の顔が一気に熱を持つ。

分かっていて、わざと話をずらしている。白井桃奈を庇うために――そうとしか思えなかった。

彼の手がさらに下へ伸びようとした瞬間、雪奈は反射的に腕を振り上げ、全力で彼を突き飛ばした。

小林凌輝はまったく予想していなかったのだろう。体勢を崩し、腰を強く階段の手すりにぶつける。鈍く、嫌な音がした。

その音に、雪奈の胸までずきりと痛んだ。

大丈夫かと手が出かける。けれど、歯を食いしばって押しとどめた。もう変わらなければいけない。これ以上、彼を愛してはいけない。

「触らないで」

きつく噛みしめた声で、どうにか強がる。

「あなたの子どもを産みたがる女なんて、外にいくらでもいるでしょ。……汚らわしい」

階段脇の影の中で、小林凌輝は動かなかった。

空気が沈む。ぞっとするほど昏い圧が、音もなく立ち上っていく。

雪奈の耳の奥では、血の音がわんわんと鳴っていた。

こんな言葉を彼にぶつけたのは初めてだった。怒鳴ったあとになって、彼の顔を見ることすらできない。殴られるかもしれない――本気でそう思った。

けれど次の瞬間、二階の書斎の扉が乱暴に叩きつけられる音が響いた。

雪奈は震えながら壁にもたれ、そのままずるずると座り込む。

また涙が堰を切ったようにあふれ出す。

泣きながら思う。これが最後だ。彼のために流す涙は、これで終わりにする。

翌朝、小林凌輝は書斎から出てきた。

寝室には戻らなかった。書斎のソファは寝心地が悪く、昨夜ぶつけた腰のあたりには青あざが広がっている。

二階から降りると、食卓にはいつもの朝食が並んでいた。だが、雪奈の姿はない。

使用人がコーヒーを運んできて、控えめに口を開く。

「奥さまが……こちらのデリバリーが、ご自分の手料理にいちばん近い味だと」

丸い肉まんは見るからに食欲をそそるが、たしかに雪奈の作るものほど整った形ではなかった。

小林凌輝は表情を変えず、淡々と尋ねる。

「まだ起きていないのか?」

いつもなら彼が起きる頃には、その日に着るスーツがきちんとベッドサイドに用意されている。

使用人は一瞬ためらった。だが、小林凌輝の氷のような視線に射すくめられ、慌てて答える。

「奥さまは……お出になりました。夜明け頃、荷物を持ってタクシーで……」

小林凌輝の表情が、ほんの一瞬だけ崩れた。

それから、笑うように怒気を滲ませる。

「本気で離婚するつもりなのか?」

一晩もあれば頭を冷やすと思っていたのに。

使用人はもちろん答えられない。食卓にはやがて、咀嚼の音だけがかすかに残った。

ふと、小林凌輝はキッチンへ目を向ける。

雪奈は決して口数の多いほうではない。それでも朝食の席では、何かしらぽつりと話しかけてきた。彼はたいてい聞き流し、たまに適当に相槌を打つだけだった。

その程度のことだったはずなのに、今日の静けさは妙に耳についた。途端に食欲が失せる。

立ち上がってそのまま出勤しようとしたとき、玄関に置かれた封筒が目に入った。

中に入っていたのは、印刷された離婚協議書。

財産は放棄。慰謝料もいらない。

下には、雪奈の署名があった。

封筒を持つ指先が、じわじわと力を帯びていく。

たった数行の文面だ。それなのに彼は何度も何度も読み返した。口元には笑みすら浮かんでいる。傍から見れば、ただただ恐ろしいだけの顔だった。

仕事もない。白井家とも折り合いが悪い。

本当に離婚したら、あいつはどうやって生きていくつもりなんだ。

そのとき、スマホが鳴った。

友人の竹内悠一からのビデオ通話だった。画面に映るのは、どんよりと曇った海辺。荒い波が打ちつける岩場の先に、細い人影が立っている。今にも海へ落ちそうだった。

ズームされた顔を見た途端、竹内悠一の慌てた声が響く。

「凌輝! あれ、義姉さんじゃないか? お前ら喧嘩したのかよ。なんで海に飛び込もうとしてるんだ!」

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