第3章
シンプルな白いロングドレス。小林凌輝は、以前クローゼットで一度見かけたことがある。何気なく「地味すぎて似合わない」と口にしてしまってから、雪奈がそれを着たところを見たことはなかった。
――本当に、彼女だ。
スマホを握る指に力が入り、関節が白く浮く。
「……ここ、どこだ」
「西館ビーチだよ。場所、送ろうか?」竹内悠一は二人の関係を知っているから、わざわざ凌輝を呼べなどとは言わない。「秘書を寄こす? それとも俺がそのまま通報する?」
「いい。俺が電話する」小林凌輝は眉間に深い皺を刻んだ。
雪奈の番号を押しながら玄関を出て、車に乗り込む。
今日は重要な案件が山積みだ。彼女の“騒ぎ”に付き合っている時間はない。
コール音が長く続き、ようやく繋がった。受話口の向こうは、風の音がやけに大きい。
「雪奈、まだふざけてるのか?」ごうごうという風に苛立ちが煽られ、凌輝は乱暴に息を吐く。だが、声だけは抑えた。「先に帰ってこい。週末は時間を作る。お前のしたいこと、何でも付き合うから」
雪奈は、彼が離婚の話をしているのだと思っていた。乾いた笑いが漏れる。
「身ひとつで追い出されてあげたのに……まだ不満?」
浮気したのは彼だ。なのに別れた女に“手切れ金”でも払えと言うつもりなのか。
「俺がサインしなきゃ戻らないって?」凌輝の声が低くなる。「雪奈、そんなやり方で脅すのか」
雪奈は凍りついた。彼が、海に飛び込むとでも言って脅していると受け取ったのだ。
その態度に、もう海を眺める気分ではなくなる。
目の前の緩やかな斜面には、寄り添う恋人たちが何組も座って潮風を浴びていた。幸福そうな背中が、やけに目に刺さる。道路側からは死角で、来たときは誰もいないと思ったのに。
「小林社長」雪奈は真剣に、どこか卑屈なほど丁寧に言った。「早く離婚して、お互い解放されましょう。あなたも、本当の愛を追えばいい」
「……本気なんです。お願いですから、もう私を苦しめないで」
少し間を置き、淡々と続ける。
「切りますね。サインしたら連絡ください。市役所で手続きしましょう」
ツー、ツー。
本当に切れた。
小林凌輝は、怒りに笑ってしまいそうになる。
――俺の電話を切るだと?
いい度胸だ。
「池田」運転手に命じてビーチへ向かわせようとした、その瞬間。スマホがまた鳴った。竹内悠一からだ。
「凌輝。お義姉さん、さっき電話を受けたら立ち上がって歩いて行きました。たぶん、考え直したんじゃないですか」
竹内悠一は心底ほっとしたように息をつき、もごもごと付け足す。そもそもあの岩場、思ったほど危なくもなさそうだ――と。
だが凌輝は、ろくに聞いていなかった。
雪奈は従順だ。いつだって、彼の手を煩わせない。
通話を切ると、凌輝はすぐ仕事の連絡を捌き始め、この件を頭の隅へ追いやった。
一方、海辺の雪奈が凌輝の電話を急いで切ったのは、親友の小野朝香から着信が入ったからだ。
「もう着いたよ」と言われ、雪奈は立ち上がってその場を離れる。
「雪奈、よく決めたね。おめでとう!」
真っ赤なスーパーカーの横で、小野朝香が薔薇の花束を抱え、雪奈の腕に押しつけた。
「こんなに大げさに?」雪奈は目を丸くする。「でも、まだ手続き終わってないよ……」
「そんなの関係ないでしょ。決めたんだから、まさか戻ったりしないよね?」朝香はアクセルを踏み込み、街へ向けて車を走らせる。「ほら、買い物行くよ!」
そう言うと、バッグからカードを一枚ひらりと投げてよこした。
「はい、これ。あんたのカード!」
「……私の?」雪奈は受け取りながら首を傾げる。
「そう。私が会社立ち上げたとき、一緒に作ったじゃん。忘れた?」
朝香がデザイン会社を始めた頃、雪奈はまだ結婚していなかった。チーフデザイナーだった朝香が、給料を振り込む用に新しい口座とカードを作らせたのだ。けれど小林家に嫁いでから、そのこと自体、すっかり記憶の端に追いやっていた。
結婚後も時間を見つけて何度もデザインは提供した。でも朝香は言ったのだ。
「もし旦那が“夫婦の共有財産”とか言い出して半分持っていったらムカつくでしょ。給料は私が預かっておく」
雪奈は気にしなかった。デザインは、退屈な結婚生活の息抜きだったから。お金のためにやっていたわけじゃない。
「中に2000万入ってるよ」朝香が眉を上げる。「サプライズでしょ? 私、商才ありすぎ。最初は兄貴に頭下げて投資してもらったのに、今じゃ向こうが株買いたくて順番待ちだもん」
窓から入る風が、朝香の長い髪をざっと払っていく。
「これからは私と仕事しよ。好きに稼いで好きに遊んで、って最高じゃない? 小林夫人よりずっとマシ。……あ、あと秘密があるんだ」
朝香は急に楽しそうに笑った。
「小林グループのラグジュアリー部が出してるネックレス、何本かうちのデザインなの。ねえ、取引切ったらさ、小林凌輝ってムカついて倒れるんじゃない?」
雪奈は言葉を失った。
知らないところで、自分と小林凌輝がビジネスとして繋がっていたなんて。ひどく遠い話に思える。
「……今は、ただ消えてほしい」花束を抱え、助手席に体を預けて呟く。「夫としても、取引先としても。もう二度と顔を見たくない」
白井桃奈の言う通りだ。自分は、小林凌輝の隣に立てる器じゃない。
なら、二度と交わらないようにすればいい。彼と関わらない人生を選ぶ。それがせめてもの、雪奈の尊厳だった。
都心のショッピングモールの駐車場に車を停めると、朝香はまず雪奈をプロのメイクへ連れて行った。
雪奈は昨夜ほとんど眠れず顔色も悪かったが、朝香が隣にいるだけで気持ちは少し明るくなる。メイクの腕も見事で、疲れはきれいに消えた。
整った顔立ちは、ほんの少し手を加えるだけで息を呑むほど映える。
朝香は満足げに頷き、そのまま服を買いに行こうと腕を引く。
「何年も黒と白とグレーばっかだったでしょ。そろそろ変えなよ」朝香は真っ赤や紫といった派手なドレスを何着も選び、雪奈に押しつけた。
他の人なら色に負けてしまう。だが雪奈が着ると、派手さがすっと馴染み、ただの“きれいなロングドレス”に落ち着いてしまうから不思議だ。
白い背中と長い首筋が露わになり、雪奈は居心地悪そうに肩をすくめた。
「……ちょっと露出、多くない?」
「はあ?」朝香は呆れたように目をひんむく。「まだ“小林家の奥さん”として人の顔色見て服選ぶつもり? 綺麗なんだから出しなって」
雪奈は堪えきれず、ふっと口元を緩めた。
そのとき。
ショッピングモールの反対側から、スーツ姿の男たちが歩いてくる。先頭はひときわ威圧感のある男――小林凌輝だった。タブレットを片手に眉を寄せ、モールのマネジャーの報告を聞いている。
周りは失言を恐れて縮こまっているのに、竹内悠一だけは両手をポケットに突っ込み、のんびりと美女を物色していた。
「凌輝、見て。美人!」悠一が肘で凌輝の腕を小突く。「こんな綺麗な人、久々だな。芸能人とかじゃね? 俺、連絡先もらってくる!」
そう言って髪を軽く整え、自信満々に店へ向かった――その次の瞬間。
背中の襟を、ぐいっと掴まれて引き戻される。
竹内悠一が声を上げるより早く、凌輝はもう気づいていた。
試着室の前にいる女に。
……雪奈だ。
凌輝でさえ、一瞬、見間違えたほどだった。
