第4章
突然後ろ襟をつかまれ、竹内悠一は息が詰まって危うく咳き込むところだった。
振り向いて文句のひとつも言おうとした、その瞬間。
小林凌輝が顔を曇らせ、底の見えない視線で、あのすらりとした後ろ姿を射抜いているのが目に入る。
「……知り合いか?」
悠一は自分で襟を引き戻し、凌輝の隣に立って声を落とした。
そして改めてその姿を見て――悠一は一瞬で固まる。
輪郭も、眉も目も。
「えっ……義姉さん?! 義姉さん、いつ整形でもしたんだよ。なんでそんなに綺麗になってんの!」
今の雪奈は、雰囲気も装いも、まるで別人。
生まれ変わったと言っていい。
凌輝は答えない。
危険なほど細められた黒い眼。近寄るなと言わんばかりの低い気配が、全身からにじみ出ていた。
一緒にいるショッピングモールのマネジャーたちですら、思わず唇を引き結び、息を潜める。
雪奈はVネックの赤いワンピースを着て鏡の前に立っていた。
隣の小野朝香が何か言うと、雪奈はぱっと花が咲いたように笑う。
前から見ても、後ろから見ても、今の雪奈は眩しいほど映えていた。
そのとき、凌輝のスマホがぶるりと震えた。
画面を開く。銀行の利用通知。
雪奈に渡しているサブカード――半日で、100万。
容赦なく使い切っている。
朝は離婚だなんだと言っておきながら、数時間でこれだ。
結局、離婚話も自分の気を引くための芝居にすぎない。
凌輝は乱れた感情を押し込み、店へ向かって歩き出した。
店内。
「雪奈、このワンピ、絶対あんたのために作ったみたい! これにしよ! はい決定、私が決めた!」
朝香が嬉しそうに肩を抱く。
雪奈は胸元に手を当て、少し気恥ずかしそうにした。
こういう服はほとんど着たことがない。慣れないのもあるが、何より凌輝に余計な誤解をされたくなかった。
けれど鏡の中の女は、ただ立っているだけで光をまとって見える。
「スタイルあるのに隠してどうすんの! 雪奈、今の自分がどれだけ魅力的か分かってる?」
朝香は細い腰に腕を回し、ぐいっと引き寄せる。
「離婚するなら、ちゃんと自分に戻んなきゃ。次の男はもっと素直で可愛いのいけるって!」
雪奈は腰に回された手を軽く叩き、くすっと笑った。
「はいはい、口だけは達者」
鏡の中の自分を見ていると、不思議と心が少し軽くなる――
そこに、入ってこなければ。
朝香も来客に気づいたらしく、雪奈の手を引いて振り返りもしない。
「最悪。買い物してるだけで会いたくないのに遭遇するとか。雪奈、別の店行こ」
雪奈がふと振り返る。
ちょうど、男の底なしの黒い瞳とぶつかった。
数歩先に立つ小林凌輝。
その背後には、目を丸くした竹内悠一と、何人かのショッピングモールのマネジャー。
――その一瞬だけ。
雪奈は淡々と視線を外し、知らない人を見るみたいに背を向けた。
興ざめ。
胸の中で舌打ちし、さっさとレジへ。支払いを済ませると、そのまま店を出ようとする。
「どこ行く」
凌輝が進路を塞いだ。さっきよりも、眼の色が深い。
「欲しいものがあるなら買え。気が済むまでな」
低く冷たい声。感情が読めない。
「何、その急な態度」
雪奈は眉を寄せ、心底わけが分からないという顔をした。
「私、今すごく機嫌いいの。あなたがいなければ、もっと良かった」
「雪奈!」
凌輝の拳がぎゅっと握られる。怒りを必死で抑えているのが見て取れた。
カードを使ったのなら、満足するまで買わせれば機嫌が直る。そう思っていた。
自分の時間は貴重だ。それでもわざわざ来てやったのに、まだこんな態度か――。
「調子に乗るな」
雪奈のこめかみが、ぴくりと跳ねた。
何が「調子に乗るな」だ。言い返そうとした、そのとき。
背後から、聞き慣れた声が飛び込んできた。
灰になっても分かる声。
「凌輝兄? ほんとに凌輝兄だぁ! すごい偶然!」
白井桃奈が最新の限定バッグを腕に提げ、腰をくねらせながら近づく。
そして当然のように凌輝の腕へ絡みついた。
他の女が凌輝に近づいたのかと思ったのだろう。桃奈は視線を上げ――相手が雪奈だと分かった瞬間、瞳がぎゅっと縮む。
いつも野暮ったい雪奈が。
今は、妙に色っぽくて、綺麗で――。
嫉妬が桃奈の目の奥をかすめた。
「お姉ちゃん?」
上下に値踏みするように眺め、わざとらしく驚いてみせる。
「うそ、すっごくセクシー。ほんと、ちょっと見ない間に別人みたい。凌輝兄と一緒に来たの?」
そう言うと、桃奈はにこっと笑って凌輝を見上げる。どこか自慢げに。
「凌輝兄、昨日私が新作のシャネルのバッグ、入荷遅いって愚痴ったから、わざわざ時間作って催促しに来てくれたの?」
雪奈は眉を上げ、口元に薄い嘲りを滲ませた。
なるほど。ここにいる理由はそれか。白井桃奈のためなら、別に不思議でもない。
凌輝は雪奈を見下ろし、背後のマネジャーの一人に手で合図する。
「シャネルの新作、いつ入る。入ったら桃奈に先に選ばせろ」
桃奈は嬉しそうに凌輝の腕へさらにしがみつく。体ごと貼りつきたいみたいに。
「凌輝兄、ほんと優しすぎ!」
それでも手は離さないまま、今度は雪奈に向き直り、わざとらしく申し訳なさそうな顔を作る。
「お姉ちゃん、誤解しないでね。お姉ちゃんも欲しいなら、譲ってあげてもいいよ」
施しみたいな口ぶり。
雪奈の横で朝香が盛大に白目をむいた。
雪奈は全部見ているのに、言い返すのすら馬鹿らしいと思った。
離婚を拒むのは、こうやって愛人を連れて自分の前で見せつけるため?
雪奈は踵を返す。
「私は趣味が違うの。あなたが好きなもの、私が好きになるわけないでしょ」
それに――他人が奪えるものなんて、最初からいらない。汚らわしい。
だが桃奈が一歩出て、行く手を塞いだ。
委屈そうに、今にも泣きそうな顔。
「お姉ちゃん……怒らないで。お姉ちゃんが欲しいなら、私、絶対取り合いしないから」
雪奈は、もう笑いそうになった。
「まだ演じ足りないの? もう奪わないって言ってるのに、何の芝居よ!」
そう言って振り払った、その瞬間。
桃奈はまるで強く突き飛ばされたみたいに、ぐらりとバランスを崩して後ろへ倒れる。
その背後にいたのは凌輝だった。
倒れる寸前、凌輝が一歩踏み込み、素早く桃奈の腰を抱き留める。
桃奈は流れのまま凌輝の胸へもたれ、両腕で首にしがみついた。
――どう見ても、甘ったるい。
心臓が不意にきゅっと痛んだ。
雪奈は拳を強く握り、二人を引き剥がしたい衝動を押し殺す。
「離婚協議書、もうサインしたんでしょ。だからそんなに急いで、公の場で別の女と抱き合ってるわけ?」
凌輝の瞳が一気に暗く沈む。
彼は桃奈を押しのけ、声を鋭く落とした。
「雪奈、言い方に気をつけろ」
「間違ってる?」
雪奈は鼻で笑い、真っ直ぐ黒い瞳を見返す。
「私はもうサインした。これからはあなたに縋りつかないって約束した。それなのに、なんでわざわざ私の前でこんな芝居するの!」
「気持ち悪くないの!」
声は震える。それでも必死に冷静さを保った。
少なくとも――見下されるような姿だけは見せたくない。
桃奈はあっという間に目尻を赤くする。
「お姉ちゃん、誤解だよ……私と凌輝兄は何もない。凌輝兄が新作のバッグを取り置きしてくれただけなのに、どうして……そんな言い方するの」
ついに朝香が堪えきれず、指を突きつけた。
「その演技、役者やらないの人生損してるよ! 浮気相手が本妻面して成り上がるドラマ、主演できるって。その役なら、あなたの持ち味を存分に活かせるよ!」
「黙れ!」
凌輝は朝香を睨みつけた。
「躾も礼儀もないのか」
朝香は凌輝に向かって、これ以上ないくらい露骨に白目を返す。
竹内悠一も口を挟んだ。
「義姉さん、誤解だって。凌輝と桃奈は本当に何もない」
「あるかないかなんて、本人たちが一番分かってる」
雪奈が冷たく言い切った、そのとき。
張り詰めた空気を、別方向から柔らかな声が割り込んだ。
「雪奈? やっぱり君だったんだ。人違いかと思った」
カジュアルなジャケット姿の、上品な雰囲気の男が歩み寄ってくる。
穏やかな笑み。
「何年ぶりかな。君、ますます綺麗になったね」
雪奈は相手を見て、数秒遅れてようやく思い出す。
「……先輩?」
長谷川洋介。大学時代の先輩だ。
当時はミスター・キャンパスにも選ばれた有名人で、顔も良くて才能もあって、何かと雪奈の面倒を見てくれた。
卒業後は海外へ行ってしまい、何年も会っていない。まさかここで会うなんて。
「うん、僕」
長谷川洋介は頷き、優しい目で雪奈を見た。
空気が、すっと冷える。
小林凌輝の表情は、今にもこの突然現れた男を切り裂きそうだった。
そのタイミングで、白井桃奈が目をくるりと動かし、一歩前へ出る。
「長谷川先輩だぁ。お久しぶりです。お姉ちゃんね、先輩のことすっごく恋しがってたんですよ」
