第8章
話している間に、作品画像はすでに小林凌輝のパソコンへ送られていた。
それはジュエリーのデザイン画一式だった。「暁」シリーズを着想に、シンプルな装飾でありながら、夜明けの金色の光をそのまま切り取ったみたいに見える。細部の処理も驚くほど丁寧で、隙がない。
――これが、本当に雪奈の作品?
「小林さんから奥さまに、どうかお伝えください」
ビデオ会議が終わると、小林凌輝は画面を見つめたまま動かなかった。
あり得るのか? 三年も専業主婦をしていた女が。
コトリ、とカップが目の前に置かれる。白いシルクのネグリジェ姿の白井桃奈が、彼の背後に立っていた。
「このデザイン画……」
白井桃奈は言いかけて、すぐに言葉を飲み込む。
「どうした」小林凌輝は眉をわずかに寄せた。「言いたいことがあるなら言え」
白井桃奈は大きく息を吸い、覚悟を決めたように口を開いた。
「これ……本当は、私が描いたの」
「……お前が?」
小林凌輝は目を見開いた。
「うん」白井桃奈はうつむき、叱られる子どもみたいに肩をすくめる。「前に作った作品なの。でも、私なんて無名で、出しても誰にも見てもらえないと思って……だから、小林夫人の名前を借りて発表したの」
言いながら、彼の表情を恐る恐るうかがう。
凌輝の眉間がわずかに険しくなるのを見て、白井桃奈は慌てて袖をつかんだ。
「ごめんなさい……私……こんなこと、しちゃいけないって分かってる。でも、ただ……私の作品を、もっとたくさんの人に見てほしかっただけで……」
口調はだんだん震え、目元が赤く滲んでいく。声も、かすかに詰まった。
「私、ずっとデザインの勉強してたの。いつか、あなたに釣り合う女になりたくて……凌輝兄、怒らないで。ね?」
今にも泣き出しそうな顔を前に、小林凌輝は困ったように首を振った。
「……次はない」
作品が本当に雪奈のものだと思い込んでいた。まさか白井桃奈の作だとは。
そうなると、得をしたのは雪奈のほう――ということになる。
白井桃奈の胸が、ぱっと明るく弾む。
「凌輝兄、やっぱり私に一番優しい! ありがとう!」
彼女はくるりと回り、小林凌輝の正面へ。片腕を彼の首に回し、そっと身を寄せる。もう片方の手で、彼の頬を慎重になぞった。
背中側から見れば、まるでキスしているみたいだった。
雪奈は、ドアを押し開ける手を止めた。
デザイン案を取りに戻っただけなのに、こんな場面にぶつかるなんて。
二人が裏で関係を持っているのは知っていた。だが「知っている」のと「目の前で見る」のとでは、まるで違う。
「……最低」
雪奈は鼻で笑い、堪えるのをやめた。足早に書斎へ踏み込み、男に絡みついている白井桃奈を引きはがし、容赦なく頬を張る。
パァンッ!
手のひらがじん、と痺れた。けれど、胸の痛みに比べれば何でもない。
「離婚の手続き、まだ終わってないのに。もう待ちきれないわけ?」
白井桃奈はよろけて床に尻もちをつき、涙をぽろりと落とした。
「お姉ちゃん……どうして叩くの? 私、なにか悪いことした……?」
まだ演じるの?
書斎のものなんて、見なければよかった。
雪奈は息を整え、背を向ける。
「今日は自分のものを取りに来ただけ。お邪魔したわね。続き、どうぞ」
……さっきは冷静じゃなかった。
これこそ白井桃奈が見たかった光景だ。どうしてまた、相手の思うつぼに――。
もし小林凌輝が――。
「待て。桃奈に謝れ!」
雪奈は一瞬だけ足を止め、すぐに歩き出す。
「止まれって言ってるだろ! 耳が聞こえないのか?」
今さら、どうして自分が言うことを聞くと思うの。
雪奈は振り返り、嘲るような笑みを刃物みたいに向けた。
「ええ、耳も聞こえないし、頭も悪いわ。あんたみたいな男を好きになったんだもの」
一語ずつ、噛みしめるように告げる。
「私は謝らない。謝るべきなのは、あんたたちよ」
裏切ったのはそっちなのに。どうして自分が頭を下げなきゃいけない。
「謝れ。さもないと――どうなっても知らないぞ」
後悔? 今の自分が、そんなものを怖がるとでも?
雪奈は軽蔑するように笑い、踵を返した。
「ガシャン!」
机の上のコーヒーが、乱暴に倒されてこぼれる音がした。
雪奈はそのまま小野朝香のマンションへ向かった。
この二日間、スマホは鳴りっぱなしだった。小林凌輝から、白井桃奈から、さらには両親からも。
うんざりして、電源を切って放り投げた。
まずは心を立て直す。これからの道を、ちゃんと考えないといけない。
雪奈は、長らく開いていなかった仕事用のメールにログインした。
デザインは彼女の趣味で、以前は投稿もしていた。けれど小林家に嫁いでから、いつの間にか遠ざかっていた。
数年ぶりに開いた受信箱は、メールでぎっしり埋まっていた。
国際ジュエリーデザインコンクールの一次通過の知らせ。ヨーロッパの著名なアトリエからの招待。ラグジュアリーブランドのオファー。
さらに、一年前、暇つぶしに出した「暁」シリーズのデザイン画が、まさかの国際デザイン協会・新鋭大賞を受賞していた。授賞式は来月だという。
二日間まとわりついていた靄が、ようやく薄くなる。
男が何よ。裏切らないのは、仕事だけだ。
……けれど、ふと雪奈は眉を寄せた。
「暁」シリーズのデザイン画は、まだ小林家の別荘に置きっぱなしだ。
あの夜、全部回収するつもりだったのに――書斎での騒ぎに頭に血が上って、すっかり忘れて飛び出してしまった。
そのとき。
バンッ!
勢いよくドアが開き、小野朝香がスマホを握りしめたまま飛び込んできた。顔色は真っ青を通り越して、鉄みたいに冷たい。
「雪奈! 大変! これ、見て!」
