第9章
雪奈がトレンド入りした。
『小林夫人、実妹いじめ』
『小林夫人、浮気相手に妻の座を奪われた側だったはずが……?』
タップすると、編集された動画が再生される。
そこに映っていたのは――あの日、ショッピングモールの階段室。
角度的に、上の踊り場からこっそり撮られたものだろう。画面は妙に鮮明で、雪奈が「泣き寝入りするしかない」ような態度の妹を押しのけ、最後に白井桃奈が床へ倒れ込み、そのまま気を失うところまで、ばっちり収まっていた。
コメント欄は炎上どころの騒ぎじゃない。
【うわ、性格悪すぎ。実の妹にここまでやる?】
【雪奈って、妹の婚約者を奪った浮気相手が成り上がったって噂の?】
【友だちより怖いのが姉ってやつか】
罵詈雑言に、悪意だけで膨らんだ憶測。
誰かが彼女のSNSまで掘り当て、アカウントの下は狂ったみたいな誹謗中傷で埋め尽くされた。
さらに過激な連中は、雪奈の写真を加工して「遺影」まで作って拡散している。
小野朝香は怒りで全身を震わせた。
「まさかあの日、盗撮されてたなんて……! しかもこれ、前後が明らかに切られてる。完全に雪奈を狙い撃ちだよ。どうするつもり?」
雪奈は拳をきつく握りしめた。
その瞬間、スマホが震える。小林凌輝からのメッセージ。
【明日9時、ブルーベイ・カフェ。離婚協議書に署名する】
今、このタイミングで……。
――でも、いい。
彼は、ついに離婚に応じたのだから。
翌日。新しい生活を迎えるために、雪奈はあえて目立つ真紅のワンピースを選び、喫茶店へ向かった。
けれど9時を過ぎても、小林凌輝は姿を見せない。
まさか……からかわれた?
そう思った矢先、喫茶店のドアが勢いよく押し開けられた。
入ってきたのは客でも小林凌輝でもない。カメラと録音機材を抱えた記者たちの一団だった。
「いたぞ!」
雪奈が状況を理解した時には、もう遅い。
四方を囲まれ、鋭い質問が波のように押し寄せる。
「雪奈さん、実妹をいじめた動画について説明をお願いします」
「報道の通り、妹さんの交際に割り込んだ不倫相手だったんですか」
「どうやって小林グループ社長の小林凌輝さんと結婚したんです? 手段は?」
逃げようにも、隙がない。
店内の客たちは一斉にこちらを見て、ひそひそと声を重ねる。視線と噂が、刺みたいに肌に刺さった。
押され、肩がぶつかり、息が詰まりそうになる。
その中で雪奈は、ようやく気づく。
――嵌められた。
あのメッセージが本当に小林凌輝から送られたかどうかなんて、もう関係ない。目的は、雪奈をここへ呼び出し、記者に囲ませること。
小林凌輝が……?
これが、彼の言う「当然の報い」なのか。
雪奈は目の前の記者を押しのけようとした。だが、誰かに強く突き飛ばされ、バランスを崩して椅子にどさりと座り込む。
テーブルのコーヒーが揺れ、真紅のスカートにべちゃりとこぼれた。最悪だ。みっともない。
「私こそ、小林凌輝の法律上の妻です! 結婚して三年になります! 白井桃奈のほうが不倫相手よ!」
落ち着け。冷静に。
そう自分に言い聞かせながら言葉を繋ぐ。
けれど――今さら誰が信じる?
真実なんて、最初から重要じゃない。記者が欲しいのは数字と熱だけだ。
そのとき、柔らかくて聞き慣れた声が割り込んだ。心配そうに震えている。
「みなさん……どうか、姉ちゃんをこれ以上追い詰めないでください」
白井桃奈が、白いワンピース姿で人混みをかき分けてきた。
青白い顔色が、その「可哀そう」をいやというほど引き立てる。目は赤く、睫毛の先に涙が溜まって、今にも落ちそうだった。
雪奈の前に立つと、桃奈は嗚咽まじりに言う。
「姉ちゃん、ごめんなさい……全部、私のせいです。私がいなければ、姉ちゃんがこんな目に遭うことも……」
そう言って、くるりと振り向き、周囲へ深く頭を下げた。
「本当にすみません。騒がせてしまって……」
そして涙声で続ける。
「あの動画は、誤解なんです……姉ちゃんは何もしていません。私が体が弱いだけで……どうか姉ちゃんを責めないでください」
雪奈は黙って、彼女の演技を眺めていた。止める気にもならない。
なぜなら――人だかりの向こうに、小林凌輝の姿を見つけてしまったから。
桃奈は胸を押さえ、痛々しいほど小さく息を吸う。
「悪いのは私なんです。本当は……凌輝兄……いえ、小林さんと婚約していたのは、私でした。でも三年前、持病のせいで、海外で手術を受けないといけなくなって……」
悲しい記憶を思い出したかのように、涙がはらはらと頬を伝う。
「手術台の上で死んでしまうのが怖くて……だから父にお願いしたんです。姉ちゃんに代わりに婚約を果たしてもらって、小林さんに嫁いでほしいって……」
そして雪奈へ向き直り、手を取ろうとする。声はどこまでも低姿勢で、惨めなほどだ。
「姉ちゃん……私が戻ってきたのがいけなかった。あなたと小林さんの間に現れるべきじゃなかった。まさか、私がいるだけで姉ちゃんがこんなに苦しくなるなんて……」
雪奈は冷えた目で見下ろし、手を引こうとした。
だが桃奈はさらに強く握りしめてくる。
「次は、倒れても、ショックを起こしても……絶対に小林さんに病院へ連れて行かせたりしません。姉ちゃん、許して……? 許してくれたら、私……一生、海外にいます。二度とあなたと小林さんの前に現れません」
よくもまあ、そこまで情に訴えられる。
雪奈は鼻で笑い、手を振りほどいた。
すると桃奈は、その勢いのまま前へよろけ、椅子に手をついてはぁ、はぁと荒く息をする。今にも崩れ落ちそうな姿。
――また始まった。
「白井さん、大丈夫ですか? 救急車呼びましょうか?」
「姉なのに冷たすぎる! 妹が発作起こしてるのに放っておくなんて!」
その騒ぎの中心へ、小林凌輝がようやく入ってきた。
眉間に深い皺。纏う空気は冷たく重い。
彼は迷いなく桃奈の腕を取り、しっかりと支えてそのまま胸元へ抱き寄せた。守るように、当たり前みたいに。
そして雪奈へ向けて、氷の刃のような視線を投げる。声は有無を言わせない硬さだった。
「桃奈に謝れ。今すぐだ」
