第4章

汚水が勢いよく降り注ぐ。誰もが琳がずぶ濡れになる無様な姿を期待したその刹那――彼女は身をひらりと翻し、背後に立っていた中村を素早く引き寄せた。

汚水は正確に校長の頭から浴びせられ、全身をぐっしょりと濡らす。たちまち強烈な悪臭が広がった。

「ぎゃああっ!」

「誰だ!」

壇上は大混乱に陥り、教師たちが慌てて駆け寄って校長を囲む。

だが、琳だけは平然と元の場所に立っていた。

暗がりに潜む何者かが苛立たしげに足を踏み鳴らし、再び仕掛けてくる。

琳は視界の隅で、頭上の水入りバケツを操っている影を捉えた。次の瞬間、バケツが彼女めがけて投げ込まれる――。

しかし彼女は見向きもせず、素早く身をかわして足を振り抜いた。ドンッ! バケツは凶器のように飛び、暗がりの人物へと一直線に激突する。

「うぎゃっ! 痛っ!」

バケツは不意打ちを狙った生徒の顔面にクリーンヒットし、悲鳴が立て続けに上がった。

「……ふん、子どもだまし」

こんな程度の騙し討ちなど、血羽にとっては笑う価値すらない。

彼女は壇上で見下すように立ち、挑発的な言葉を放つ。

「まだ不服があるなら、来なさい」

しかし今度こそ、講堂は水を打ったように静まり返り、誰一人として声を上げる者はいない。

全員が呆然と壇上の琳を見つめていた。以前の卑屈で怯えてばかりいた彼女が、これほどまでに威圧的な言葉を吐くとは。

――まるで別人ではないか。

壇の下に立つ梨乃は、驚愕の面持ちで眼前の琳を見上げる。

これが、あの橘家の「白痴の大小姐」だというのか。

琳はマイクを無造作に投げ捨て、胸を張って壇を降りた。学校の教師ですら、誰一人止めようとはしない。

この一件が与えた威圧感は凄まじかった。教室に戻った後も、かつて琳をいじめていた者たちは面と向かって陰口を叩けなくなり、何か言いかけても彼女の姿を見た途端に口を閉ざした。

ようやく静かになった。琳は元の持ち主の記憶に従い、自分の席へと腰を下ろす。

転生してからというもの、なぜかずっと身体がだるい。座った瞬間、机に突っ伏して眠りに落ちた。

教室に生徒がぽつぽつと戻ってくる中、ぼんやりとした意識を劈くように叫び声が響いた。

「きゃあ! 私のサファイアのネックレスがない! 誰よ、私のサファイアを盗んだのは!?」

「見つけたら許さない! 自分から名乗り出なさい!」

クラスは一気に騒然となり、生徒たちは口々に持ち主である森田由利を気遣う。

「それ、数ヶ月前の誕生日にお父さんがくれたやつだよね? 五千万円もするって……」

「どこに置いてたか思い出して! 前はどこにあったの?」

由利は焦った様子でバッグを掻き回し、机の引き出しを確認する。

「さっきまで引き出しに入れてたの。講堂から戻ったら、なくなってたのよ」

由利の家は裕福で、森田家はA市でも有数の名家だ。普段からわがままで大小姐の気性を見せつける彼女に対し、クラスメイトはその身分を恐れて誰も逆らえずにいた。

そんな彼女が物をなくしたとあっては、誰も迂闊に口を挟めない。

そこへ遅れて夢子がやって来て、心配そうな顔で教室の入り口から由利のそばへ歩み寄った。

「由利、落ち着いて。泥棒はあなたが戻る前に教室に入ったはずよ。あなたより先に戻ってた人を調べればいいんじゃない?」

その言葉にはっとした由利は、すぐさま机で眠っている琳へと鋭い視線を向けた。

隣にいた取り巻きもその視線に気づき、すかさず叫ぶ。

「思い出した! 由利が戻る前、教室にいたの琳だけ!」

「琳! あんたが由利のサファイアを盗んだんでしょ!」

無数の視線が教室の隅へ突き刺さる。だが琳は机に突っ伏したまま、微動だにしない。

その態度が大小姐の逆鱗に触れた。由利は怒りも露わにずかずかと歩み寄り、思いきり机を叩きつける。

ドンッ!

凄まじい音に、琳は眉をひそめ、眠たげに顔を上げた。ひどく苛立った声で吐き捨てる。

「……死にたいの?」

底冷えのする侮蔑の響きに、由利は歯噛みする。自分はクラスでも別格の大小姐だ。たかが私生児の分際で、よくもそんな口を叩けたものだ。

背後の取り巻きがすかさず噛みつく。

「琳、とぼけないで! 絶対あんたが由利のサファイアを盗んだんだ!」

「そうよ! 貧乏人がサファイアを見て嫉妬したんでしょ! だから由利が戻る前に盗んだのよ!」

そう言い放つなり、その生徒は琳の机にあった小さなバッグを奪い取り、乱暴に口を開けた。そして、大声を上げる。

「由利! あった! サファイア、ここ! 琳が盗んだんだ!」

衆人環視の中、バッグから青い宝石のネックレスが引きずり出される。教室は一気に沸き立った。

「現行犯じゃん!」

「講堂で人が変わったかと思ったけど、結局泥棒なんて。マジで引くわ」

「由利、警察呼べば? ここにいる全員が証人になれるよ。このクズが盗んだって」

由利はネックレスを受け取り、傷がないことを確認すると、毒々しい視線で琳を睨み下ろして鼻で笑った。

「橘家の私生児って、ほんと品がない」

夢子も由利の後ろから追い打ちをかける。

「本当よね。田舎育ちの私生児が、初めて五千万円の宝石なんて見たら、そりゃ狂うわよね」

「夢子、ほんと同情する。橘家って名門なのに、どうしてこんな恥知らずな姉がいるの?」

……。

周囲から浴びせられる悪意がとめどなく膨れ上がる。眠気を潰された琳のこめかみが、ぴくりと跳ねた。

これ以上、我慢する理由などない。

彼女は直接、机を叩きつけた。

ドンッ!!

先ほどの由利よりも遥かに大きな音が響き、教室の生徒たちはビクッと肩を震わせて口をつぐむ。

静寂の中、琳はゆっくりと立ち上がった。本来の彼女は橘家の正真正銘の令嬢であり、その血は背丈に表れている。立ち上がると、目の前の女子たちよりも頭一つ分は高かった。

眠りを妨げられたことが、何よりも不快だった。

細めた目で苛立たしげに由利を射抜く。言葉を発する前のその一瞥だけで、由利は背筋に寒気を覚えたが、必死に強がって声を張り上げた。

「琳! 私のものを盗んだくせに、その態度は何よ!」

琳は無駄口を叩かない。

手を伸ばし、一瞬で由利の髪を鷲掴みにした。あまりの速さに周囲が反応すらできない中、由利の悲鳴だけが響き渡る。

「ぎゃあっ!!」

「琳、正気!? 何してるの! お母さんに言ったらタダじゃ済まないわよ、早く由利を離して!」

夢子が止めに入ろうとするが、琳は身をひるがえして由利の頭をぐっと押し下げ、氷のように冷たく命じた。

「目を開けてよく見なさい。ネックレスに何が付いてる?」

その声に込められた圧倒的な威圧感に呑まれ、由利は反射的に従ってしまう。視線が自然とサファイアに向かい、傍らの取り巻きたちも覗き込んだ。

「……え」

「由利! サファイアに髪の毛、引っかかってる……」

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