第1章
「工藤さん、検査結果ですが――急性リンパ性白血病です。しかも、もう末期に入っています。骨髄の適合を探しても……間に合わない可能性が高い」
工藤花恋は報告書を握りしめた。指先が、かすかに震えて止まらない。
病院の長い廊下で、脚の感覚が消えるほど立ち尽くして――気づけば、ふらふらと帰宅していた。
灯りは点けなかった。裸足のまま冷たい大理石の床を踏み、少しずつ、少しずつソファへにじり寄る。
ソファの角に身体を丸め、闇に沈む。そうしないと、息ができない気がした。
そのとき、スマホの画面がぱっと光り、眩しさに花恋は目を細めた。
ニュースの通知。添付された写真。
背景は煌々と輝く市の中心部。象徴的な超高層ビルが、流れる光の巨大なアート文字へと姿を変えていた。
アキナセンター
【速報。本日、三浦グループは旧・市立金融センターの買収および改称を正式に完了しました。本市最高層の当ビルは、三浦グループ社長・三浦央士氏と、重要なビジネスパートナーである岡田明菜氏の名を冠し、共同命名されるとのことです。
業界の伝説とテック界の精鋭が結びついた、ロマンティックな象徴ともいえる今回の動き――。】
眼の奥がつんと痛んだ。
胸の中心が、誰かにえぐり取られたみたいに空っぽで、静かで、冷たい。
震える指で記事を開くと、下にもう一枚、写真があった。
完璧に仕立てられた黒いスーツ。背筋を伸ばして立つ三浦央士が、きらめく岡田明菜の隣にいる。
少し首を傾け、彼女の話に耳を傾ける横顔は――冷たさが和らいで見えた。
岡田明菜は高層ビルを見上げ、瞳に驚きと感動をきらきら浮かべている。
コメント欄は爆発していた。
「やばっ、ビル買って改名って何それ。恋愛漫画が現実になったやつ?」
「岡田明菜、前世で銀河救っただろ。能力トップ、彼氏もトップ、しかも激甘で名前を空に刻むとか……私、泣く」
「これが釣り合う恋ってやつ。三浦社長の岡田教授を見る目、愛と尊敬が詰まってて尊い」
「羨ましいって言葉、もう擦り切れた。岡田明菜おめでとう、末永く!」
一つひとつが、細い針になって花恋の心に刺さる。
岡田明菜と三浦央士は、天が合わせた完璧な恋人。
じゃあ自分は、何なんだろう。
法律上、三浦央士の妻は工藤花恋だ。
その彼女が、今――夫が別の女のために、この街で一番眩しい光を買うのを見ている。
乾いた目尻を指で拭った。
痛みが極限を越えると、本当に涙は出ないらしい。
深夜。
電子錠が解錠される音が、死んだようなリビングに響いた。
三浦央士が入ってくるなり灯りを点け、ネクタイを解きかけた手が止まる。
ソファの隅に座る花恋が目に入ったからだ。
予想していなかったのだろう。眉をひそめる。
「まだ起きてたのか。なんで電気も点けずに、こんなところで」
花恋は動かない。虚ろな視線を床に落としたまま、しばらくしてようやく口を開いた。
「今日、病院に付き合うって約束したよね」
三浦央士の表情が一瞬だけ硬くなる。脱いだジャケットをソファの肘掛けに雑に掛け、苛立ちを隠しもしない。
「会社で急に重要な会議が入った。抜けられなかった」
「ニュース、見たよ」
花恋はようやく顔を上げる。青白い頬に表情はない。ただ、天井灯の冷たい光が瞳の奥に宿っていた。
「アキナセンター……すごく盛大で、すごく眩しいね」
三浦央士は眉間の皺を深くした。声が低くなる。
「明菜のチームが画期的な成果を出した。会社の今後の戦略に関わる。これは宣伝だ。余計なことを考えるな」
花恋の唇が、ほんのわずかに歪む。
自分を嘲るようでもあり、相手を見下すようでもある笑みだった。
その話題を追わず、まっすぐ彼を見て問いかけた。
「私の検査結果、どうだったか聞かないの?」
三浦央士は、今思い出したように適当に返す。
「医者は何て言ってた」
「大丈夫」
花恋は目を伏せる。長い睫毛が影を落とし、感情を全部そこに隠した。
「ちょっと貧血ってだけ」
三浦央士は二歩近づき、抱き寄せた。声は少し柔らかくなる。
「鈴木さんに言って、補血の料理を増やさせろ。燕の巣も家にある。ケチるな」
広い胸。なのに、温度がない。
ふと鼻先をかすめた、淡いジャスミンの香り。涼やかで、どこか特別な匂い。
視線が落ち、彼のシャツの肩に止まる。
微かに癖のある、栗色の長い髪が一本。
岡田明菜の髪は、綺麗な栗色の長いウェーブだった。
その一本が、心臓をきつく縛り上げるみたいに、胸がぎゅっと縮む。息が詰まった。
「三浦央士」
声はかすかで、触れたら壊れそうだった。
「いま私を抱いてるのに……あなたの心の中にいるのは、誰?」
抱える腕が、ほんの一瞬だけ固まる。
三浦央士は彼女を離し、青白い顔を見下ろした。苛立ちが滲む。
「花恋。またくだらないこと考えてるのか」
「くだらない?」
花恋は笑った。笑みの奥には、深い孤独が滲んでいた。
「三浦央士、自分に聞いてみて。あなたの心の中にいる人は、いったい誰? 本当に私の妄想?」
叫びもしない。けれど一言一言が明確で、鈍い刃で肉を削るみたいだった。
三浦央士の顔色が沈む。眉間を押さえ、怒りを強める。
「花恋、いい加減にしろ! そんなに不安なら……子どもでも作るか。祖母もずっと催促してる。子どもができれば、お前も落ち着くだろ」
花恋は途方もない冗談を聞いたみたいに笑い――そのまま、目の縁が赤くなる。
この人生で、彼女はきっと、自分の子を抱くことなどない。
花恋は彼を強く押しのけた。視線は、これまでになく決然としている。
「三浦央士……疲れた」
立ち上がる。薄い身体が照明の下でわずかに揺れるのに、声だけは異様に固い。
「もう、こんなの続けたくない。離婚しよう」
離婚。
その二文字が、静かな部屋に氷の塊みたいに落ちた。
三浦央士の顔から完全に血の気が引く。底のない冷たさが瞳に沈む。
花恋を睨みつけ、歯を食いしばるように言った。
「花恋、何を騒いでる? 結婚するときに言っただろ。対外的には公表しない。互いの私生活に干渉しない」
「今さら、どういうつもりだ」
