第4章 証拠を探す
工藤花恋は、その「声明書」とやらを睨みつけた。並んだ文字の一つ一つが、踏みにじられた自分の尊厳を嘲笑っているみたいだった。
顔を上げる。
三浦央士――三年、愛して。三年、「旦那」と呼び続けた男。
いま彼の瞳にあるのは、まぎれもない嫌悪。
その現実があまりに生々しくて、花恋は思った。自分の三年間なんて、道端の犬以下だ、と。
「三浦央士……」
声が震えた。
「私って、あなたの目には、そんなに下劣に映るの?」
三浦央士は苛立ったように、机を指でコン、と叩く。
「署名しろ。……これがお前に残された、最後の体面だ」
「体面?」
花恋は笑った。笑みの端が痛い。泣きそうになるのを、必死で飲み込む。
「愛人のために道を敷くのに、私の尊厳を足で踏みつけて粉々にする。それを、私に『体面』って言うの?」
次の瞬間、花恋は書類をひったくり、ぐしゃりと握り潰した。
そして――冷えきったその顔めがけて、力いっぱい叩きつける。
「やってないことは、死んでも認めない! リークしたのが私じゃないって、証明してやる! こんな汚名、絶対に背負わない!」
紙くずは軽い。致命傷にはなり得ない。
けれど三浦央士の顔色は、一瞬で鉄みたいに沈んだ。
「工藤花恋!」
花恋はもう一度も彼を見なかった。
踵を返し、足早に部屋を出る。
三浦グループのビルを出ると、空はどんよりと重く垂れ込み、雨の匂いがした。今にも降り出しそうだ。
花恋は朦朧としたまま、「家」と呼ばされてきた場所へ戻った。
ドアを開けた途端、冷え切った静けさが押し寄せる。
部屋の空気が、肺の奥まで冷たく刺さった。
身体の細胞が、痛いと叫んでいる。
医者が言っていた。白血病の合併症で、痛みはこれから増していく、と。
花恋は玄関の床に崩れ落ち、荒い息を繰り返した。
このまま終わらせるわけにはいかない。
離婚するなら、何も持たずに出ていくとしても――せめて、汚れのないままで。
三浦央士が「花恋がリークした」と決めつけるなら、証拠を突きつけて黙らせる。
それに……。
もし、三浦央士の婚姻中の裏切り――岡田明菜との関係を示す決定的な証拠が掴めたら。
離婚の争いで、ほんの少しでも主導権を握れるかもしれない。
法廷で、三浦グループの弁護団に「有責」に仕立て上げられるなんて、絶対に嫌だった。
必要なのは、証拠。
花恋の視線が、ゆっくりと二階の廊下の突き当たりへ向かう。
三浦央士の書斎。
この家の禁域。
普段、掃除すら入るなと言われた。泥棒を見るみたいに、警戒されてきた場所。
書斎には防犯カメラのシステムがある。家のクラウドサーバーにも繋がっているはずだ。
もし婚姻情報が漏れたのが家のパソコンに触れたせいなら、あるいは誰かが出入りしたなら、記録が残っている。
花恋は壁に手をつき、一段ずつ、重い身体を引きずるように階段を上がった。
書斎の扉を開けると、淡いシダーウッドの香りが鼻を刺す。
三浦央士が好むアロマ。昔はそれだけで安心できたのに、いまは吐き気がする。
椅子に座り、モニターを点ける。
やはりパスワード。
花恋の指が、キーボードの上で宙に止まったまま震えた。
一度目。別荘の番地。
画面に赤い警告が跳ねる。
【パスワードが違います】
二度目。結婚記念日。
1015。
安物のドレスでも胸を躍らせて嫁いだ日。彼は終始不機嫌で、指輪さえ秘書が渡してきた。
また、赤。
【パスワードが違います】
花恋は口元を歪めた。
そうだろう。彼にとって、あの日は厄日だ。パスワードにするはずがない。
三度目。三浦の祖母の誕生日。
三浦央士は祖母にだけは孝行だ。きっと――祈るように打ち込む。
【パスワードが違います。残り1回。誤入力の場合、システムがロックされ警報が作動します】
心臓が、ぎゅっと縮んだ。
掌に冷たい汗が滲む。
最後の一回。
点滅するカーソルが、絶望のカウントダウンみたいだった。
ふと、頭の中に日付が浮かぶ。
1206。
岡田明菜の誕生日。
毎年この日、三浦央士は丸一日姿を消す。どれだけ待っても、料理を温め直しても、帰ってこなかった。
指が震え、数字を押すことすら嫌だった。
もし開いてしまったら――この三年間の自分は、いったい何になる。
冷たいキーに触れて、押す。
1、2、0、6。
エンター。
「ピッ――」
澄んだ音。
鍵のアイコンが解け、デスクトップが表示された。
花恋は全身の血が逆流したような感覚に襲われ、頭頂から足先まで一気に冷えた。
……開いた。
家の最高セキュリティが、元彼女の誕生日。
その瞬間、花恋の胸の奥に残っていた最後の火種――みじめで、卑屈で、自分でも馬鹿みたいだと嫌悪していた希望が、きれいさっぱり消えた。
この家では、防犯システムですら自分を笑う。
花恋は目の奥の熱さを飲み込み、防犯カメラの保存フォルダを開いた。
ここ数日の記録を見つけて、リークしていない証明をする。ただそれだけのために。
直近一週間のリストをクリック。
数日前の夜の映像が立ち上がる。
三浦央士がデスクに座り、電話越しに柔らかく話していた。花恋が見たことのない甘さを纏った横顔。
「明菜、心配するな。あの場所は、永遠にお前のために取ってある……」
胸が、鈍い刃で削られる。
この映像を証拠としてコピーしようとした――そのとき。
書斎の扉が、どん! と力任せに叩き開けられた。
驚いて手が跳ね、マウスが机の上に落ちる。
入口に立つ三浦央士。胸が大きく上下し、息が荒い。慌てて戻ってきたのが一目で分かった。
立ち入り禁止のはずの女が、彼の椅子に座り、彼のパソコンに触れている。
「工藤花恋! 何をしてる!」
三浦央士は数歩で詰め寄り、花恋の手首を乱暴に掴み上げた。
「誰が入っていいと言った? 誰が俺のパソコンを触っていいと言った! 何を盗んでる。会社の機密か? それとも明菜を脅す材料でも探してるのか!」
矢継ぎ早の怒声が、機関銃みたいに降り注ぐ。
花恋は痛みに息を吸い込み、青白い顔で呻く。
「離して……盗んでない……」
「盗んでない?」
三浦央士の視線が画面へ走り、防犯カメラ映像が再生されているのを見た瞬間、怒りが一気に点火した。
「監視を呼び出してるのか? 何のつもりだ。切り貼りしてネットで被害者面でもする? 都合のいい部分だけ使って俺を強請る気か!」
「工藤花恋……お前がここまで腹黒いとは思わなかった! 離婚で財産を分けさせるためなら、何でもするってわけか!」
「違う……!」
花恋は首を振り、必死に言葉を繋ぐ。
「私は潔白を証明したいだけ! 婚姻情報を漏らしたのは私じゃない。誰かが触ったかもしれないから……」
「もういい!」
三浦央士は聞く耳を持たなかった。
彼の目に映るのは、嘘ばかりで強欲な女。
三浦央士は花恋からマウスを奪い取り、映像の中身を確認すらしないまま、監視記録を全選択し――右クリック。
永久削除。
