第1章

「声、出せ」

冷えきった命令が落ちた瞬間、林田朔夜の顎を、細く長い指が容赦なくつかんだ。抑え込んでいた喘ぎが、唇の隙間からこぼれてしまう。

最上階のラグジュアリーなレジデンス。床から天井まで伸びる窓の前で、彼女は冷たいガラスに押しつけられていた。背中に当たるのは、藤原承弦の引き締まった熱い胸板。

彼のキスが全身に降り注ぐ。久しく味わっていなかった、傲慢な独占欲を帯びたそれ。

林田朔夜は目を閉じる。二カ月ぶりの情事を、ただ受け止めるしかなかった。

藤原承弦が彼女を意識が飛びそうなほど弄んでようやく手を離すと、振り返りもせずにバスルームへ入っていく。

ざあざあと水音が立つ。朔夜は力が抜けたように絨毯へ滑り座り、磨りガラス越しの影をぼんやり見つめた。

相馬晴が現れてから、藤原承弦はほとんど顔を出さなくなった。界隈ではとっくに噂が煮えたぎっている。――藤原社長は、今回は本気だ、と。

自分は気にしないはずだった。けれど「今夜行く」という連絡を見た瞬間、丁寧にメイクをして、先に部屋で待っていた自分がいる。

テーブルの上で、藤原承弦のスマホ画面がふっと光った。

「藤原さん、祝勝会でお酒を飲まされて……ちょっと怖いの。迎えに来てくれませんか?」

相馬晴からのメッセージ。朔夜の胸がひくりと跳ね、指先が無意識にきゅっと握り込まれる。

三年の金糸雀生活――とうとう「任期満了」ってこと?

その考えが浮かんだ途端、なぜか肩の力が抜けた。

三年前。バーの裏路地で酔っ払いに絡まれた夜。藤原承弦の運転手が降りてきて、男たちを追い払った。震える身体で顔を上げた朔夜は、車窓越しにこちらを見下ろす藤原承弦の重い視線とぶつかった。

翌日、彼の助手が現れて契約書を差し出した。

三年、二億。加えて母親の治療費は全額負担。

条件はひとつ――藤原社長の「秘密の恋人」になること。

契約書を握る手が止まらず震えた。父は事業に失敗して飛び降り、母はショックで心を病み療養院へ。朔夜は夜の店で働き、毎日いやらしい視線と手に追われた。稼ぎは焼け石に水。

選べなかった。

そうして、藤原承弦の秘密の恋人になった。

藤原承弦はよく、彼女の顔を見つめてぼうっとする。後になって知った――彼は朔夜を見ていたんじゃない。別の誰かを、透かして見ていただけ。

葉山氷月。藤原承弦が唯一愛した女。プロポーズを拒んで、国外へ留学していった。

契約を結んだ以上、雇い主の望む役を果たす。それが義務。

朔夜は骨の奥の棘を隠し、葉山氷月のように振る舞うことを覚えた。従順で、柔らかくて、逆らわない女。

上流の坊ちゃんたちは陰で笑った。「顔だけで社長のベッドに上がった女」――そう言われても、朔夜はただ穏やかに微笑むだけで反論しなかった。

葉山氷月が、そういう女だったから。

演技は完璧で、藤原承弦も満足した。

彼は金の約束を果たすだけじゃなく、朔夜を自分の秘書に据えた。契約一本で収入は二本。誰もが血眼で奪い合う案件のリソースも、藤原承弦が頷きさえすれば彼女の手に落ちた。

三年なんて、あっという間。

――飽きたんだろうな。

バスルームの扉が開く。藤原承弦はスマホを手に取り、メッセージを確認した瞬間、瞳がわずかに止まった。

朔夜の心臓も、ぎゅっと掴まれたように痛む。

行って。迎えに行って。それで私に、契約は終わりだって言って。

酸っぱい想いが喉に溜まる。

だが藤原承弦は、画面を消してスマホを伏せ、朔夜の前まで歩み寄ると、顎をつかんで身をかがめ――もう一度、唇を奪った。

朔夜の全身が硬直する。

再び嵐のように翻弄されたあと、藤原承弦の肩に手を置いた朔夜が、息も絶え絶えに言った。

「藤原社長……早く行ってください。相馬さん、助けが必要みたいです」

藤原承弦の動きが止まる。彼は目を伏せ、朔夜を見下ろした。

「俺に行ってほしいのか?」

朔夜は目を細め、いつもの従順な笑みを作る。

「お仕事の邪魔になったら困りますから」

藤原承弦は彼女を離し、立ち上がる。

朔夜も立ってクローゼットからシャツとスーツを取り出した。藤原承弦が腕を広げる。朔夜は目を伏せ、慣れた手つきでボタンを留め、ネクタイを締めていく。

藤原承弦はじっと、彼女の白い横顔を見ていた。

「来月のAIビッグデータ案件、お前が旗を振れ」

不意の言葉。

朔夜の指がネクタイの途中で止まり、驚いた目で彼を見上げる。

藤原グループの年度重点案件。十桁規模の予算で、古参の重役たちが半年も揉めて決まらなかった――それを、自分に?

ああ、そうだ。別れの手切れ金は、豪華であるほど社長の「体面」が保てる。

胸の酸味を押し殺し、畏まった顔を作る。

「ありがとうございます。必ず準備いたします」

藤原承弦が低く笑い、手を伸ばして彼女の頬をつまむ。

「当然だ」

親指が唇をなぞり、言葉を区切る。

「ずっと俺について来い。お前を一番高い場所まで持ち上げてやる。ただし覚えておけ。お前のすべては、俺のものだ」

ずっと――?

相馬晴のそばにいる彼の顔を思い出すだけで、胸が詰まる。だが朔夜はすぐに視線を落とし、持ち上げたときにはもう、従順な仮面に戻っていた。

「心得ております、藤原さん」

藤原承弦は満足げに手を離し、袖口を整えると、そのまま部屋を出ていった。

静寂。残されたのは朔夜ひとり。

窓辺へ歩きながら、藤原承弦の言葉を反芻する。

ずっと、ついて来い。

でも――パパラッチが撮った写真の中で、藤原承弦が相馬晴を見る目は、朔夜が一度も向けられたことのない「集中」だった。

自分には独占と支配しかない。相馬晴には、あんなにも柔らかな眼差しがある。

スマホが震え、ニュース通知が表示された。

『藤原グループ社長、海外名門の長女と政略結婚へ――強強連合で業界地図を塗り替えるか』

文字を見た瞬間、心臓が鋭く刺された。

なるほど。結婚するんだ。

だから突然、権限を与えた。

手切れ金じゃない。結婚してからも鎖をつけたまま、陽の当たらない愛人にしておくためだ。

最低。

口元を引きつらせたが、笑えなかった。

胃がぐらりと波打つ。洗面所へ駆け込みえずくが、何も出ない。

鏡の中の女は青白く、目の縁だけが赤い。

――もういい。

そう自分に言う。

出て行くべきだ。

翌日、朔夜は藤原承弦に上着を届けるため、経済番組の生放送スタジオへ向かった。

困り顔のディレクターが彼女を見つけるなり、目を輝かせて腕を掴んだ。まるで命綱でも見つけたみたいに。

「朔夜、頼む、助けてくれ! 相馬晴のリハを全員待ってるのに、本人がまったく動かないんだ!」

「相馬晴は藤原社長と関係があるだろ? 俺らじゃ強く言えない。藤原社長と近いのは君だけだ、説得してきてくれ!」

面倒は避けたかった。だが炎天下で待たされている数十人のスタッフを見て、結局歩き出した。

「相馬さん。皆さん、待っています」

「へえ。誰かと思えば」

相馬晴が顔を上げる。目には露骨な嘲り。

「藤原社長から聞いてない? あなた、私の前に出てこなくていいのよ」

朔夜は無表情のまま、腕を掴んで引き起こす。

「全員待っています。撮影に協力してください」

「協力ぁ?」

相馬晴が鼻で笑い、「あんた何さ――」と言いかけたところで、言葉が喉で途切れた。

顔色が変わり、目尻が一気に赤くなる。声には泣きの震え。

「朔夜さん……私、司会の仕事を奪ったって責められてるのは分かってます。でも会社の決定で……そんな言い方、ひどい」

朔夜が固まる。

振り返ると、いつの間にか藤原承弦が少し離れた場所に立っていた。表情は冷えきっている。

「どういうことだ」

彼は歩み寄り、真っ先に相馬晴の赤い目に視線を落とした。

「藤原さん……」

相馬晴はすすり泣き、涙目をさらに赤くする。

「ちょっとお化粧直ししたいだけだったのに、朔夜さんが『大物ぶってる』って……それに、私のこと……枕で上に行ったって……」

あまりにも稚拙で吐き気がしたのに、朔夜は笑えなかった。

藤原承弦が手を上げ、優しく相馬晴の背を撫でたのだ。

その眼差し――朔夜が見たことのない柔らかさ。

次の瞬間、彼は朔夜へ向き直り、視線が氷の刃になった。

「林田朔夜。謝れ」

たった三文字が、鉛のように重い。

胸に針が突き刺さる。

藤原承弦は誰にでも遊びだと思っていた。違う。遊びだったのは自分だけ。自分には「本気」を向ける価値すらない。

そうだ。替え玉。金で買った恋人。

真心を望むほうが滑稽だった。

朔夜は目が覚めたように踵を返す。

「林田朔夜!」

背後から怒気の混じった声。

止まらない。

どれくらい歩いたか。背後から荒い足音が追いかけてきた。

藤原承弦が前に立ち塞がり、その巨体の影で彼女を覆う。

「今日どうした」

不機嫌を隠しもしない声。

朔夜は逃げず、いつもの従順さも捨てた。初めて、自分の目で藤原承弦を見つめ返す。

「藤原社長。会社との契約、もうすぐ期限です」

声は静か。

「次は更新しません」

「……どういう意味だ」

藤原承弦が目を細め、空気が一気に重くなる。

朔夜は口元を少しだけ上げる。笑みは冷たく、距離だけがある。

「辞めます。……それと、おめでとうございます。結婚されるんですよね」

「前に言いました。私は不倫の相手にはなりません。あなたが結婚するなら、私は去ります」

一拍置いて、淡々と続けた。

「引き継ぎはきちんとします。ご安心ください」

そう言って歩き出そうとした。

「林田朔夜!」

藤原承弦が手首を掴む。骨が砕けそうな力。

「誰が許した」

「藤原社長、離してください」

朔夜は振り返らず、声も冷たい。

「撮られたら困るでしょう。婚約者に誤解されますよ」

藤原承弦が一瞬、息を呑み、力が緩んだ。

朔夜はその隙に手首を引き抜き、振り返らず去った。

スタジオの外。車のドアにもたれた相馬晴が、彼女を見て勝ち誇った赤い唇を吊り上げる。

「藤原社長の心は私のもの」

耳元へ顔を寄せ、挑発するように囁く。

「身の程を知って、さっさと消えなよ」

朔夜の足が止まる。

もう演じる必要はない。

顔から従順が消え、相馬晴が見たことのない明るさと張りが宿る。

「藤原承弦は結婚するんでしょ」

朔夜は眉を上げた。

「愛人の席なんて、欲しい人が座ればいい」

目を細め、最後に吐き捨てるように言う。

「私は――汚いのは嫌」

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