第3章
「林田さん。もともとお身体が弱いようです」
医師の口調には、はっきりとした反対の色が滲んでいた。
「妊娠を中断すれば、身体への負担は大きいですよ」
林田朔夜の顔から血の気が引く。
医師は彼女の様子をうかがい、声を少しだけ落とした。
「一度、慎重に考えてから決めましょう」
慎重に、考える。
林田朔夜はこくりと頷いた。口の中に苦味が広がり、今にも溢れ出しそうだった。
藤原承弦の子を、残す?
自分に――その資格があるのだろうか。
病院を出た朔夜は休暇を申請し、車を呼ぶと、そのまま郊外の療養院へ向かった。
「林田嬢、いらっしゃい」
介護士の長島が庭先でシーツを干しながら、ぱっと笑う。
「今日はいい天気ですね。さっきお母さまを外にお連れして、少し日向ぼっこさせたところなんですよ」
朔夜は、指さされた先を見る。
庭の長椅子に、ひとりの女性が静かに座っていた。厚い毛布にくるまり、虚ろな目で、葉の落ちた枝を見つめている。
母だった。
三年前まで、上品で穏やかで、手を握って「体を大事にして」と言ってくれた人が――いまは骨ばって、驚くほど痩せている。
長島が小さくため息をつき、声を落とした。
「今日は情緒が安定してます。朝もお粥を、半杯ぶん多く飲めました」
朔夜は頷く。
「ありがとうございます、長島さん」
「この子は……ほんとに律儀ねえ」
長島の目に憐れみが浮かぶ。
「お父さまが生きていれば……はぁ」
――そうだ。
父が生きていれば。
三年前。父の会社はまだ倒れていなかった。母は花や草をいじるのが好きで、週末には台所に立ち、料理をずらりと並べてくれた。
朔夜は甘やかされて育ち、金のことで悩んだことなんてなかった。悩みといえば、せいぜい試験の点数くらい。
それが、父が会社の屋上から飛び降りた日ですべてが変わった。
借金取りが押しかけ、親戚は蜘蛛の子を散らすように逃げた。中には、最後に残った家の不動産を安く飲み込もうとする者までいた。
母は葬儀の場で崩れ、重度のうつと統合失調症と診断された。
二十歳の朔夜は、ひとりで全部を背負うしかなかった。
「……お母さん」
朔夜は母の前にしゃがみ、冷えた手をそっと握る。
「会いに来たよ」
林田奥は反応しない。虚ろな目のまま、遠くを見ている。
朔夜は気にせず、慣れた手つきで車椅子を押し、療養院の小道をゆっくり進んだ。
初秋の陽射しが、ぬくい。
「私……」
独り言みたいに、声は小さい。
「妊娠したの」
「もう三カ月で……形になってる」
指が無意識に下腹部へ伸びる。
「どうしたらいいのか分からない……お母さん、私、どうしたら……」
枯れ枝を抜ける風が、かすかな泣き声みたいに鳴った。
長い沈黙。
「……朔夜」
掠れた、消え入りそうな呼び声。
朔夜の全身がびくりと震える。
母が――呼んだ?
母はいつの間にか顔を上げ、朔夜を見ていた。
「朔夜、泣かない」
冷たい指が、朔夜の目尻をそっと拭う。
「ママがいる。朔夜、怖くない。赤ちゃんも、怖くない」
その一言だけで。
朔夜の涙が、堰を切ったように落ちた。
熱を出した夜、母が温かいタオルで額を拭いてくれた記憶。
父が亡くなった後、必死に気丈を装いながら手を握って、「ちゃんと生きて」と繰り返した声。
朔夜は母の手を握り返し、涙で濡れた頬に当てた。
「お母さん……産みたい」
鼻をすすり、言う。
「私が育てる。いいよね?」
林田奥は答えない。ほどなく、また元の虚ろさへ戻ってしまった。
それでも朔夜は落ち込まなかった。
「早く良くなってね」
涙を浮かべたまま、無理に口角を上げる。
「その時、花の名前を教えて。昔、私にしてくれたみたいに」
そう言って車椅子を押しながら戻る朔夜の背中を、母の瞳の奥で何かが揺れていたことに、朔夜は気づかない。
療養院を出て車を呼ぼうとした時、知らない番号から電話が入った。
「林田嬢。お家元がずっとお返事をお待ちです。お決めになりましたか」
朔夜は息を呑み、スマホを握りしめた。
沈黙が長く続き、相手が切ろうとした、その瞬間。
朔夜が言う。
「……まだ考えています。私から、直接お返事します」
同じ頃、藤原グループ。
「朔夜さん、辞めたって?!」
「マジかよ……藤原社長、林田さんのこと相当買ってたのに……」
社長室周りの助手たちが集まり、小声でざわつく。顔には隠しきれない怯えが浮かんでいた。
藤原社長がどれほど扱いにくいか、誰だって知っている。この数年、林田朔夜が間に入ってくれたからこそ、彼らは泣かされずに済んでいたのだ。
その朔夜がいない――?
「終わった……」
誰かが呻く。
「昨日のレポート、三回突っ返された。社長の顔色……マジで死ぬほど怖い」
皆の目に、同じ絶望が映った。
経済チャンネルの生放送スタジオ。
CMの合間、相馬晴が藤原承弦のそばへ寄る。
「藤原さん」
甘く、辛いを混ぜた声。
「朔夜さんが……全然、引き継ぎに来ないんです。案件が多すぎて、私ひとりじゃ分からなくて……」
藤原承弦が眉を寄せ、周防補佐へ視線を投げる。
「林田朔夜は」
周防補佐が声を落とす。
「三日、休みを取っています。体調不良だそうで」
「藤原さん……朔夜さん、プロジェクト渡したくないんじゃ……」
相馬晴が目を赤くして口を挟む。
「私、経験浅いのは分かってます。でも、こんなの……『星空』は来月公開ですよ? 何かあったら……」
「出ていけ」
藤原承弦が遮る。声は冷たい。
相馬晴が固まる。
「藤原さん?」
「CMが終わる」
再点灯したカメラへ視線を向ける。
「収録の邪魔をするな」
相馬晴は唇を噛み、立ち去った。
背を向けた瞬間、辛いの仮面は消え、冷えた不満が顔を出す。
藤原承弦の庇護がなくなったら、あの女がどこまで持つか――見ものだ。
「林田朔夜は、どこが悪い」
藤原承弦は休暇そのものには興味がない。引っかかったのは「体調不良」の一言だけだった。
「それが……詳しくは」
周防補佐が予定表を差し出す。
「藤原社長、三時に海宮インターナショナルの太田部長とオンライン会議です。『星空』の資金調達プランの議論で……」
藤原承弦がファイルを受け取り、目を走らせる。眉間が深く刻まれた。
「原稿は」
「な、中に……」
一瞥で眉が寄る。
フォーマットが違う。要点が弱い。数値のマーキングもない。
今までは林田朔夜が整えていた。藤原承弦は「こうであるべき」を無意識に覚えてしまっている。
人が変わった途端、全部が気に入らない。
「作り直せ」
藤原承弦はファイルを周防補佐に放り返す。
「二十分後に出せ」
周防補佐の顔が真っ青になる。
「二十分……社長、それは……」
「無理なら、いらん」
藤原承弦は冷たく言った。
藤原承弦は朔夜へ体調を聞くメッセージを送ったが、返事は来ない。苛立ちは濃くなる一方だった。
会議では藤原承弦が原稿なしで押し切り、海宮側の幹部を納得させた。
だが長年そばにいる周防補佐だけが分かる。
今日の藤原社長は、機嫌が最悪だ。
表面は平静でも、目の奥の躁が滲む。話すスピードが速く、指先が無意識に机を叩く。苛立ちがピークの癖。
会議後、周防補佐はこっそり朔夜へLINEを送った。
「林田さん、助けてください! 社長今日またキレました。いつ戻ります? 林田さんいないとマジで死にます!!!」
朔夜がその通知を見た時、ちょうど母を寝かしつけたところだった。
画面いっぱいの感嘆符を眺め、しばらく黙る。
自分の心を整えて、母と過ごす時間を少しでも――そう思っていた。けれど藤原グループの引き継ぎもある。
早めに戻って、さっさと終わらせる。藤原グループから、藤原承弦の視界から、消える。
子どものことは――藤原承弦には知らせない。
彼の性格なら、「偽物」が藤原家の子を産むなんて許さない。堕ろさせるか、子を奪うか。
どちらも耐えられない。
だから、早く。遠く。安全に。
翌朝、朔夜はいつもより早く出社した。
誰にも知らせず、静かに書類を整理する。スターメイク計画の関連フォルダを分類し、細かなラベルを貼っていった。
「林田さん!」
一番早く来た助理の坂東が目を輝かせる。
「戻ったんですか?!」
その声で社長室周りがざわつき、皆が集まる。
「林田さん、やっと……昨日あなたがいなかったから社長が……」
「マーケティング部の部長、泣かされました!」
「私のレポート、五回戻されて……」
朔夜は聞き流した。表情は薄い。
以前なら優しく宥めただろう。だが今はただ頷くだけだった。
「心配しないでください。引き継ぎはきちんとします。社長の方も大丈夫です」
皆がぽかんとする。
今日の朔夜は、まるで別人だ。自立していて、落ち着いている。
「何を騒いでる」
低い声が入口から落ちた。
藤原承弦が立っている。視線は朔夜へ。
目が合う。
朔夜はまつ毛を伏せ、淡々と言った。
「藤原社長、おはようございます」
藤原承弦の眉がわずかに動く。
黒のタイトなスーツ、簡素なポニーテール。柔らかく笑い、囁くように話していた朔夜とは別人だった。
「来たのか」
感情の読めない声。
「はい。引き継ぎに」
藤原承弦の胸に、また苛立ちが湧く。
彼は横に立つ相馬晴へ目を向けた。
「来い」
相馬晴がすぐ藤原承弦に寄り添う。
「お前の持ってる協業リソースは、今後は主に彼女が担当する」
藤原承弦は朔夜を見つめ、一語ずつ言った。
「しっかり協力しろ」
