第4章
藤原承弦の言葉が落ちたあと、オフィスは数秒、妙な静けさに包まれた。
真っ先に反応したのは相馬晴だ。得意げな目で前に出る。
「朔夜さん、引き継ぎよろしくねぇ。お疲れさま!」
林田朔夜はその視線を受け止め、淡々と返した。
「相馬さん。ご丁寧に。業務の件は整理してお渡しします」
藤原承弦の視線が、朔夜の顔にほんの一瞬だけ止まる。
悔しさも、不満も、揺れもない。そこにあるのは、異様なまでの平静――感情の影すら見えない。
その平静が、彼の胸の苛立ちにさらに火を注いだ。藤原承弦はそれ以上何も言わず、冷えた顔のまま出ていく。
扉が閉まった途端、相馬晴の笑みはすっと薄くなった。
朔夜は自席に戻り、「星空」プロジェクトのフォルダを開く。説明を始めようとした、その瞬間――相馬晴が向かいの椅子を引き、どかっと腰を下ろした。
「そんな面倒いらないわ。簡単にリストにしてくれればいい」
相馬晴が遮り、目尻に挑発を滲ませる。
「引き継ぎは早いほどいいし。だって藤原社長、もうあなたの顔見たくないんでしょ……」
朔夜の指が、キーボードの上で止まった。
ゆっくり顔を上げ、相馬晴を見る。
相手の口元にはまだ笑みがある。せわしなく、得意げで――滑稽なくらい待ちきれない顔。
朔夜は、ふっと可笑しくなった。
「相馬さん」
声から先ほどの丁寧さが少し消える。
「藤原社長は、この案件をあなたの遊びに渡したわけじゃない。リストだけで足りますか? 違約金は10桁ですよ。あなたが見落として飛ばしたら、払える?」
相馬晴の顔が強張る。
朔夜は間髪を入れず、畳みかけた。
「それと――藤原社長が秘書に求める癖と、愛人に求める好み。そういう“細部”は、リストには書けない」
「気持ちよく取り入りたいなら、ちゃんと引き継ぎを受けたほうがいいですよ」
「……っ」
相馬晴が言葉を詰まらせ、頬がじわりと赤くなる。
藤原承弦に拾われてから、相馬晴は手を尽くしてきた。それなのに、彼は触れようともしない。自分のほうが「高嶺の花」に近いはずなのに――どうして林田朔夜を手放さない?
「朔夜さん、言い方きつくない?」
相馬晴は怒りを呑み込み、作り笑いで返す。
「そんなに細かいこと分かってて、3年もいて結局掴めなかったくせに?」
朔夜は「へえ」とだけ返し、軽く頷いた。
「相馬さんの言う通りです」
同意するみたいに、さらりと言い切る。
「無理なものは無理。だから――3年もいてベッドにも上がれないなら、あなたも無理しないほうがいい。みっともないですよ」
「あなた……!」
相馬晴は指先を震わせる。
朔夜は相手にする気もなく、画面を指し示しながら事務的に引き継ぎを進めた。相馬晴も反論できず、ペンを握って必死にメモを取る。
午前が終わるころ。相馬晴は分厚い注意事項の束を見て、疑いの目を向けた。
「こんなに親切にするなんて、裏があるんじゃない?」
朔夜は笑う。温度のない笑みだ。
「私は仕事がプロなだけです。渡すべきものは渡す」
「それで藤原承弦を喜ばせられるかは、あなた次第」
一拍置き、視線を落として言う。自然と圧が乗る。
「最後に、私的な忠告。これからは『新しいお気に入り』として生きる方法を考えて。私には近づかないで。――面倒だから」
相馬晴は反射的に半歩下がり、すぐ意地で言い返した。
「林田朔夜……覚えてなさいよ! 見てなさい!」
朔夜は無視して水筒を手に取り、給湯スペースへ向かった。
だが、水を注ぎ切る前に――広報部の責任者、曽我峰人が青い顔で飛び込んできた。
「林田補佐! 『星空』の首席デザイナー、エレンが正式に契約解除の通知を送ってきた!」
曽我峰人の声は焦りと糾弾を含んでいる。
「提出したデザインに重大な欠陥がある、継続の意味がないって! 発表会は来月だぞ、どうする!」
朔夜は眉を寄せる。
「曽我部長。最終版の設計稿は私が三回確認しました。問題があるはずがありません。設計には自信があります」
「自信が何になる!」
曽我峰人が怒鳴り、タブレットを朔夜の目の前へ突きつけた。
「これが先方の指摘だ! 見ろ!」
朔夜はタブレットを受け取り、赤で囲まれた箇所を一気に読む。
一目で眉間が締まった。
――これは、私の設計じゃない。
外枠は似ている。だがコアのアルゴリズム呼び出しも、パラメータ最適化の道筋も、根本から違う。しかも、彼女が絶対に踏まない初歩的な禁忌をいくつもやらかしている。
「この稿は違います」
朔夜は顔を上げ、断言した。
「違う? 署名はお前だ! メールもお前が送ってる!」
曽我峰人が怒鳴る。
その時。
「どういう騒ぎだ」
藤原承弦が眉を寄せて現れた。
傍で見ていた相馬晴が、待ってましたとばかりに事情を語り、最後にわざとらしく付け足す。
「朔夜さん、辞めるからって、こんな大事な案件で細工するなんて……」
朔夜は冷たく相馬晴を見た。その視線ひとつで、相馬晴の言葉が喉で詰まる。
「違う、というのは――この稿には致命的な誤りが三つあります」
朔夜の声は、迷いのない専門性で満ちていた。
「一、ターゲット動態捕捉のアルゴリズム参照が誤り。二、パラメータ設定が高すぎて実験が成立しない。三、最も素人じみているのが――データ処理フローの冗長。これはプロジェクトの目的に反します」
彼女は藤原承弦を見る。
「曽我部長、藤原社長。もしこれが私の設計なら、こんな露骨なミスを私がすると思いますか?」
空気が凍った。
曽我峰人は口を開いたが、言葉が出ない。
藤原承弦は朔夜を見つめていた。慌てもせず、目は冷静で鋭い。
その表情を、彼はほとんど見たことがない。
これまでの林田朔夜は柔らかく従う影だった。今目の前にいるのは――“本当の顔”。
藤原承弦の胸の苛立ちが、一瞬だけ奇妙な興味に変わる。
だが、それも一瞬。
「稿が流出した経路はお前。署名もお前だ」
藤原承弦が言う。声は平坦。
「ミスがあったのは事実。結果はもう出た」
その一言が落ちた瞬間、朔夜の心が沈んだ。
信じないのか。
――いや、真実を追うほどの価値が、去っていく彼女にはないだけ。
だが、やってないことの責任は負えない。
「藤原社長のご意向は」
朔夜は冷静に問う。
「お前が解決しろ」
藤原承弦の視線が、彼女を逃さない。
「一週間。できなければ契約に従い、損失と違約責任はすべてお前個人で負担してもらう」
相馬晴が、笑みを隠しきれない。
朔夜は二秒だけ黙り――藤原承弦の視線を感じた。審判する目と、なぜか混じる得体の知れない“期待”。
「分かりました」
朔夜は迷わず答えた。
「私が処理します」
藤原承弦は、朔夜の瞳に灯った見慣れない頑固な火を見た。
胸の苛立ちはまた戻り、さっきより強い。
支配の外に出られるのが嫌だ。
そしてもっと嫌なのは――彼女が、彼を一切必要としていないように見えること。
「……それならいい」
冷ややかにそう言い捨て、藤原承弦は陰った顔のまま踵を返し、去っていった。
