第5章
藤原承弦が去っても、オフィスの重たい空気は晴れなかった。
曽我峰人は大きく息を吐き、踵を返して出ていく。
相馬晴は口元だけで笑い、まるで見世物でも待つみたいな顔をしている。
林田朔夜はその場で立ち尽くし、指先を掌に食い込ませて、胸の奥で渦巻く苦さを押し殺した。
悔しいか。悔しい。けれど、それ以上に冴えた理解があった。
藤原承弦の世界では、結果と利益がいつでも人間より上。三年の従順は、結局「大事にされる」ことには繋がらなかった。
今、感情に沈んでいる暇はない。最優先は、火種を消すこと。
朔夜は席に戻り、頭を高速で回す。
解約通知の文面は強硬だ。いつものルートで頭を下げても門前払いだろう。協業を繋ぎ止めるには、首席デザイナーのエレンに直接影響できる人物――あるいは、エレン本人に会うしかない。
業界の噂を思い出す。エレンは傲慢で頑固だが、設計界の伝説的先達――隠遁して久しいフランスの巨匠・レオンを異様なほど崇拝している。
そして明晩、レオンの弟子を祝う小さな晩餐会が城内で開かれる。レオン出席、エレンも出席確定。
唯一のチャンス。
林田朔夜は唇を引き結び、一本の番号へかけた。
「もしもし、朔夜!」
明るく弾む声。向こうは撮影現場らしく、ざわついた空気の向こうでスタッフの指示が飛んでいる。赤井弦子。名の知れたファッション誌の特集編集で、人脈も太い。
「弦子、頼みがある」
挨拶は省いた。時間がない。
「明晩のモリスの晩餐会、私……中に入りたい」
電話の向こうが、すっと静かになる。二秒ほどの間のあと、弦子が声を落とした。
「朔夜、何があったの? あそこ、門が高いよ。招待状なんてもう出し切ってて、うちの編集長でも一枚だけだよ」
「分かってる。招待状はいらない」
朔夜の声は落ち着いていた。
「スタッフ枠でいい。給仕でも、受付でも……最悪、皿洗いでも」
「……っ」
弦子が息を呑む音がした。
「正気? あんな場所で……」
「弦子、ちょっと詰んでる」
朔夜は遮り、言葉に芯を通す。
「どうしてもエレンに会わないといけない。……一回だけ、助けて」
沈黙。短く長い沈黙ののち。
「分かった。手を尽くしてみる」
翌晩、モリス美術館の裏口通路。
林田朔夜はパフォーマーの一団に紛れ、休憩の隙にするりと倉庫へ滑り込んだ。
鍵をかけ、ドレスへ着替え、舞台用の濃いメイクを手早く落とす。
ウェットティッシュが肌をなぞるたび、白く繊細な素肌が戻ってくる。指で髪を梳き、まとめていた髷をほどくと、海藻みたいに濃い巻き髪がふわりとほどけ、肩から背へと落ちた。飾りは最小限。最後に引くのは、艶のある真紅のリップだけ。
鏡の中の女は、埃を払われた珠玉みたいだった。
朔夜はドアノブを握り、会場へ混ざろうとする。
扉が、ほんの少し開いた瞬間。
「ワオ」
隠す気のない感嘆が、外から漏れた。
朔夜が顔を上げる。
若い男が、まっすぐ彼女を見つめていた。目の奥にあるのは、純粋な驚嘆。
深紅のシルクドレス。ゆるい巻き髪。雪みたいな肌に赤い唇。
三年間、誰かの「儚い柔らかさ」を模倣して作った美ではない。鮮やかで、明烈で、目を奪う美しさ。
朔夜は眉を寄せ、反射的に去ろうとした。
男が追うように言う。
「なんてことだ。君、すごく綺麗だ。どうして倉庫にいるの?」
「ミューズみたいだ……」
朔夜のこめかみに青筋が立つ。
「すみません、道を間違えただけの客です」
ぎこちなく笑い、身をかわして足早に去った。
周防島一は、その背中をじっと追い――目を細める。
会場内。朔夜は周囲を見回しながら歩く。すると周防島一がまた前に回り込み、さっきより少し茶目っ気のある笑みを浮かべた。
「初めまして。周防島一です。女神さま、僕と一曲踊ってくれませんか?」
朔夜が断ろうとした瞬間、彼は軽く進路を塞いだ。押しつけがましさはない。好奇心で距離を測るような、いやに自然な動き。
「力、抜いて」
朔夜の焦りを見抜いたのか、彼が言う。
「誰か探してる? ここには詳しいよ。手伝えるかも」
朔夜の心臓が小さく鳴った。敏すぎる。
敵か味方か分からない。でも時間がない。エレンは長居しない。
朔夜は真正面から彼の笑う目を見る。
「海宮インターナショナルの首席デザイナー、エレンを探しています。できるだけ早く、二人きりで会わせる方法はありますか」
「エレン?」
周防島一の目がわずかに見開かれ、すぐにからかうように笑った。
「偏屈な頑固ジジイだろ?」
そして、さらりと言う。
「いいよ。条件は一つ。僕と一曲踊って」
朔夜は息を吐き、頷いた。彼の腕に手を添え、そのままダンスフロアへ入る。
その時、会場入口がざわめいた。
藤原承弦が到着した。隣には相馬晴。
相馬晴は腕を絡め、艶めいた表情で彼を見上げている。
「藤原社長がこういう場に女伴を連れて来るなんて初めてだわ!」
「見た? あの目……」
「相馬嬢は特別扱いだ。藤原社長が破格に扱う女ってことだろ。今回は本気だな」
囁きが、針みたいに一本ずつ朔夜の耳へ刺さる。
朔夜の足が、ほんのわずかに止まった。視線が二人を掠め、胸の奥が鈍く痛む。
周防島一は、その一瞬の硬直も、瞳の陰りも見逃さない。
彼は朔夜の視線の先を見て、納得したように目を細めた。
それから、彼女の耳元へ軽く顔を寄せる。二人にしか聞こえない声で、気怠げに囁いた。
「ピンクって可愛いけどさ。今夜は照明が冷たいせいで、あのお嬢さん……啧、なんか中毒症状みたいに見えるな」
朔夜は不意打ちに固まる。
次の瞬間、相馬晴の「力みすぎたピンク」が脳裏に浮かび、周防島一の真顔の戯言が可笑しくて――堪えきれず、唇が少し弧を描いた。
揺れる眼差し。生気が宿る頬。瞬間、顔が鮮やかに輝く。
周防島一はその笑みを捉え、目を明るくした。心の中で、軽く口笛を吹くみたいに。
その光景が――ちょうど視線を投げた藤原承弦の目に、まっすぐ突き刺さる。
「……っ」
握りしめたグラスが、かすかに鳴った。
藤原承弦は、馴染み深いのに知らない女を見る。
赤いドレス。巻き髪。赤い唇。笑顔。
記憶の中の淡い影とは、何もかも違う。鮮やかで、生命力があって――心を攫うほど魅力的で。
しかも、その笑顔を別の男に向けている。
怒りと、本人も気づかない焦りが胸を満たし、波のように押し寄せた。
藤原承弦の顔色が沈み、周囲の空気が一気に冷える。腕を絡めていた相馬晴ですら、ぞくりと震えて彼を見上げた。
周防島一は藤原承弦の視線に気づいていながら、まるで意に介さない。朔夜にぱちりと目をやり、軽い調子で言う。
「エレンの頑固ジジイ、普通は会えないよ。でも僕なら――ちょっと大技がある」
