第7章

テラスの空気が、数秒だけ凍りついた。

エレンの視線が周防島一と林田朔夜のあいだを往復し、思案の色を濃くする。周防島一の『僕の顔を立てて』は、口調こそ軽いが重みが違う。彼はレオンの最後の弟子であるだけでなく、海宮インターナショナルの実質的なオーナーでもある。周防島一を敵に回すのは、いま仕込んでいる新規案件にとって得策ではない。

「周……」

やがてエレンは眉間に皺を寄せたまま、強い声で言い切った。

「これは面子の問題ではない。私は私の原則で動く」

「誰の顔も立てなくていいです」

林田朔夜が半歩前へ出る。圧をかけようとする周防島一を視線で止め、エレンの吟味する目を真っすぐ受け止めた。

「十……いえ、五分でいい。面子じゃなく、設計だけを見てください」

手にしたタブレットを掲げる声には迷いがない。

「私の本来の設計案でも、あなたを納得させられないなら――私はすぐに退きます。そして『星空』の今後の設計稿に、二度と私の署名は載せません」

へりくだらず、かといって挑発でもない。刃のような矜持だけが、さらりと滲む。場にいる者の胸に、言い知れぬ感心が灯った。

周防島一も口を閉じた。舞台を、完全に林田朔夜へ預ける。

エレンは目を細め、改めて彼女を見た。安易な近道を狙う人間は腐るほど見てきたが、目の前の女の眼差しは澄んでいる。背筋の伸びた気配も、安物の野心とは違う。

――誤解だったのかもしれない。なら、機会くらいは与えるべきだ。

そのとき、テラスへ続く階段から足音が上がってきた。

藤原承弦と相馬晴が姿を現す。

エレンを押さえに来たはずの藤原承弦は、最後の段を踏み終えるより先に、林田朔夜の言葉を耳にした。

夜風に揺れる赤いドレス。凛とした横顔。まっすぐに立つ背中。

見慣れたはずなのに、どこか知らない。

胸の奥が、ちくりと疼く。

林田朔夜がエレンを見ると、彼はついに頷いた。ただし声音は硬いまま。

「五分だ。下の映写室へ来い。設備がある。私の時間を無駄にしたら――結果は分かっているな」

一行は映写室へ移動した。薄暗い室内の空気は、どこか妙に湿っている。

前列に座るエレンは厳しい表情のまま。周防島一は入口脇の壁にもたれ、気だるげに林田朔夜の手元を見ている。

藤原承弦は少し後ろ、影の中に立った。表情は読めない。隣の相馬晴の瞳だけが、嫉妬で濁っている。

林田朔夜は周囲の視線などないかのように、淡々とタブレットをプロジェクターへ接続し、投影の明度を調整した。

最初のアーキテクチャ図がスクリーンに映った瞬間――彼女の空気が変わる。

「エレンさん。こちらが『星空』AIビジョンの、原初のコアアーキテクチャです」

声は冷静で、研ぎ澄まされていた。テラスでの鋭さは消え、残っているのは純粋なプロの温度だけ。

「従来の多層畳み込みの積み上げは捨てています。ここで導入したのは、動的スパース注意機構で……」

指先がタブレットを滑り、要点を的確に拾い上げる。重要設計点の意図、他社案との優劣、シミュレーションの性能曲線――説明は過不足がなく、呼吸のように自然だった。

光に縁取られた横顔。いつも従順に伏せられていたはずの瞳が、いまは眩しいほどの光を宿している。

藤原承弦の瞳孔が、わずかに縮む。

胸の底で、暗い潮がうねった。

図表を滑らかに切り替え、エレンが時折投げる鋭い質問にも、即座に、しかも余裕を崩さず返す。大御所を相手にして、怯みすらない。

――林田朔夜が?

三年間、自分の傍にいた。従順で、雑務を整え、決して逆らわなかった林田朔夜が。

いつ、こんなものを身につけた。

この設計感、このアルゴリズムの精度。付け焼き刃でどうにかなる領域じゃない。

驚き。疑念。騙されていた苛立ち。さらに――認めたくないほど微かな胸騒ぎと、それに伴う不快感。

彼女は、一度も自分の前で、こんな顔を見せなかった。

相馬晴の顔色も刻々と悪くなる。専門用語は理解できない。だが、エレンの視線が吸い寄せられていくのは分かる。周防島一の露骨な賞賛も分かる。そして何より――藤原承弦が林田朔夜を見つめる、その動かしようのない熱も。

エレンの表情はいつしか厳しさから集中へ塗り替わり、ある設計箇所に差しかかったところで堪えきれず遮った。

「待て! この発想……実装が……」

勢いよく立ち上がり、スクリーンへ吸い寄せられるように身を乗り出す。

「……見事だ。いや、素晴らしい!」

興奮を隠さず振り返り、林田朔夜を凝視する。

「林田嬢、あなたは誰に師事した? あなたの設計は――ある人物を思い出させる。国際的に名を馳せた、マーキュリー氏だ。知っているのか? あるいは――」

「マーキュリー」の名が出た瞬間、林田朔夜の瞳に一瞬だけ、かすかな動揺が走る。だがすぐに飲み込み、静かに逸らした。

「過分なお言葉です。私は先人の成果の上で、いまの実運用に合わせた最適化をしただけで……」

「違う。過分ではない!」

エレンは勢いのまま、林田朔夜の手を掴んだ。

「あなたの水準は、どの首席にも劣らない。改竄された稿は――あなたへの侮辱だ。私は海宮内部で、この件を必ず私の名で澄清する」

そして畳みかける。

「それに、今後も連絡を取りたい。年内後半、パリで重要なクロスオーバー案件がある。あなたのような人材が必要だ」

その場で連絡先を交換し、何度も念を押すと、エレンは足早に去っていった。まるで今すぐにでもメールを打ち、林田朔夜の名誉を取り戻したいと言わんばかりに。

映写室に、静けさが落ちる。

林田朔夜はタブレットを片づけ、表情を変えない。まるで取るに足らない火種を消しただけのように。

影にいる藤原承弦と相馬晴へは、視線すら向けない。

そのまま周防島一のほうへ歩き、微かに笑った。

「周防さん、ありがとうございました。私、もう行きます」

「送るよ」

周防島一が自然に受け、彼女も拒まない。

二人が並んで映写室を出ようとした、その瞬間。

がしり、と手首を掴まれた。

骨に食い込むほどの力。逃げ道を許さない強引さ。

林田朔夜が振り返ると、そこにいたのは藤原承弦だった。複雑に濁った目で彼女の顔を探るように見つめ、低い声を落とす。

「林田朔夜。いつから、そんなものを……誰に教わった」

林田朔夜は手を引こうとしたが、びくともしない。

彼を見て、ふっと笑う。その笑みは薄く、刺がある。

「藤原社長は相馬嬢を放っておいて、私を捕まえて詮索ですか? ……ちょっと不適切じゃないの」

その一言が、藤原承弦の必死に保っていた平静を裂いた。

彼女がまるで何も惜しんでいないように、むしろ早く自分から離れて別の男の隣へ行こうとしている――その事実が、理性の堤を決壊させる。

藤原承弦は片手で彼女の顎を掴んだ。容赦のない指。

「俺が不適切なら、お前は適切なのか?」

瞳に、剥き出しの悪意が滲む。

「この設計稿――周防殿が作ってやったんじゃないのか。問題を片づけるためなら……お前は、本当に……どんな男でも」

唇が歪む。

「俺に不満があるから、もっと上の枝に乗り換えるのか?」

藤原承弦の言葉が落ちた瞬間、空気が一気に冷え切った。

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