第2章

トラクターは延々と走り続け、あたり一面に稲田が広がる小さな町でようやく停まった。

米崎遠山は二階建ての小さな家の前に車体を寄せると、照れくさそうに手をこすり合わせる。

「家も暮らし向きも大したことねえ。……嫌にならないといいんだが」

「平気」

米崎梨央はひらりと降り、周囲に視線を巡らせた。

ぱっと見は、どこにでもある田舎の家。けれど壁の隅――目立たない場所に小さな監視カメラが仕込まれている。軍用レベルの赤外線センサー。普通の市販品じゃまず手に入らない代物だ。

米崎家……面白い。

梨央は心の中でそう呟いた。

「梨央!」

観察している最中、花柄のエプロンをつけた中年女性が家から飛び出し、勢いのまま抱きしめてきた。

「私の娘……やっと会えた……!」

米崎梨央の身体が、ほんのわずか強張る。

女性の背後には、白いシャツを着た温厚そうな中年男性が立っていた。目元がうっすら赤い。

「帰ってきてくれたんだな。……それだけで、もういい」

梨央は小さく頷く。たぶん、この二人が実の両親――米崎琥太郎と清水恵美。

清水恵美に手を引かれ、家の中へ入る。部屋は広くないがきちんと整えられ、古い暖炉では薪がぱちぱちと爆ぜていた。

壁には油絵。手入れの行き届いた畑を描いたものだ。筆致は繊細で、色合いは柔らかい。

米崎梨央は思わず目を留める。

見間違いでなければ、名のある画家の真作。オークションでも人気のやつだ。こんな場所に無造作に掛けている時点で、この家が「田舎の貧乏暮らし」だけで成り立っているとは思えない。

清水恵美は梨央の手をぎゅっと握り、ぽろぽろと涙を落とした。

「全部、私が悪いの……あの時あなたを失くして……鈴木家で、つらい思いをさせて……」

「平気」梨央は淡々と言う。

「おじいちゃんが、よくしてくれたから」

恵美は涙を拭いながら何度も頷いた。

「……そう。それなら、よかった……」

米崎琥太郎が椅子に腰を下ろし、コーヒーを注いで差し出す。

「移動で疲れただろう。夕飯、何がいい? 俺が作る」

梨央は受け取り、ひと口含む。上質なブルーマウンテン。

「何でもいい。好き嫌いないし」

「いい子だねえ……」恵美は目尻を拭い、ふと思い出したように立ち上がった。棚からクラフト紙の封筒を取り出し、梨央の手に押し込む。

「梨央。私は十八年、母親らしいこと何ひとつできなかった。だからこれから先は、私が全部きちんと段取りするの」

開けろと目で促され、梨央は封筒の中を覗く。

写真の束。若い男がずらり。タイプも年齢もばらばらだ。

梨央が訝しげに視線を向けると、恵美はにこにこと言った。

「この数年で探しておいた結婚相手よ。気に入った人、いる? 会わせるから」

琥太郎が眉をひそめる。

「帰ってきたばかりの子に、何を言い出すんだ」

「何よ?」恵美は胸を張った。「十八年も母親失格だったんだから、せめて結婚くらいはきっちり決めてあげるの! 梨央、ほら。お父さんは気にしないで、見てみて。どれがいい?」

米崎梨央は苦笑しつつ、写真を一枚ずつめくる。四枚目で指が止まった。

早宮悠人。

かつての政略の相手だ。鈴木家が上の世界に食い込むため、必死に彼との婚約を整えた。だが鈴木朱音が現れた瞬間、すべてがひっくり返った。

その早宮悠人の写真が、ここにある。やはり米崎家は、表向きの「田舎の家」じゃない。

「梨央?」恵美が小声で覗き込む。「この人、気になった?」

「違う」梨央は即座に首を振った。

見合い自体に興味はない。ただ、母の熱量を正面から折るのも面倒だ。梨央は適当に一枚、無難な顔の写真を指差した。

「……この人でいい」

恵美が写真を受け取った途端、ぱっと目を輝かせる。

「いい! 梨央、見る目ある! この新村慎之介、私も気に入っている!」

琥太郎が覗き込み、顔色が変わった。

「新村家のどこがいい。あそこはヤクザと繋がってる」

「言うじゃない」恵美は鼻で笑った。「まるで、あなたには繋がりがないみたいな言い方」

言った直後、恵美はしまったという顔で口を押さえ、恐る恐る梨央を見る。

梨央は何も聞かなかったみたいに、表情ひとつ変えない。

恵美は気まずそうに笑い、慌てて話題を変えた。

「梨央、お父さんの言うことは気にしないで。新村家は確かに複雑だけど、新村慎之介はいい子よ。若くて有能で、顔もいいし。あなたが気に入ったなら、近いうちに会わせるからね」

「そこまでしなくていい」梨央は言う。「簡単でいいよ」

「だめ」恵美は真剣だった。「一生のことよ。ちゃんとやるの。任せて。きっちり段取りするから」

梨央はそれ以上は言わなかった。どうせ、形だけだ。

食後。恵美に連れられて二階の部屋へ通される。

小さな部屋だが、布団もカーテンも柔らかな色でまとめられていて、妙に落ち着く。ベッドに身を沈めると、久しぶりに全身の力が抜けた。

――その時。

窓の外で、懐中電灯の光が一点、すっと走った。

梨央は即座に身を起こし、窓を開けて外を確認する。監視カメラの死角を選び――窓枠を越え、するりと外へ。庭へ着地する動きは、まるで水が流れるみたいに滑らかだった。

側門から抜け、カメラを避けて表通りへ回る。

暗がりに黒いセダンが一台。梨央の姿を見てドアが開き、二十代前半の男が降りてきた。張りのある銀髪が街灯を拾ってぎらりと光る。

光。梨央の腹心の一人だ。

「姉貴、なんでこんなド田舎にいるんだよ。探すのマジで骨だったんだけど」

梨央は愚痴を受け流し、要点だけを投げる。

「調べは?」

光の顔が引き締まる。

「当たり。鈴木のおじいさんの死、やっぱ怪しい」

鞄からタブレットを取り出し、資料を開く。

「亡くなる三か月前まで、体調は安定してた。年齢なりの衰えはあっても致命的な病気はなし。亡くなった当日も、主治医の定期検査で数値は正常」

梨央はタブレットを受け取り、素早く目を走らせる。

「でもその夜、急性の心不全で死亡」光が画面を指で叩く。「血液検査も表向きは問題なし。ただ、ここ……」

数値を拡大する。

「稀少な生物毒素だ。心停止を引き起こして、症状は心不全とそっくり。普通の検死じゃまず出ない。こっちはコネ総動員して、やっと突き止めた」

梨央の瞳がわずかに細まる。

「毒素の出所は?」

光は一瞬、言葉を詰まらせた。複雑そうな顔で視線を逸らし、それでも覚悟を決めたように言う。

「姉貴、先に言っとく。聞いてから怒るなよ」

「いいから言って」

「その毒素のレシピ――新村家だ」

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