第5章

1階には、米崎琥太郎と清水恵美の寝室、それから物置が一つある。

琥太郎は、その物置へ入った。中は農具だの収穫道具だのでぎっしりだ。だが彼は迷いなく、壁の塗装がところどころ剥げた一角へ向かう。

そこを押すと――壁が、音もなく開いた。

現れたのは、控えめながらも贅沢で、整然としてどこか張り詰めた空気の書斎だった。

琥太郎は足を踏み入れた瞬間、まるで別人のように表情を変える。机へ歩み寄り、据え付けの固定電話を取り上げて、一本かけた。

コールが途切れた次の瞬間、受話口から年季の入った、それでいて恭しい声が返ってくる。

「ご当主、ご指示を」

琥太郎は短く息を吸い、低い声で告げた。

「全ルートに通達しろ。米崎家に関する情報は全部、封じる。うちの動きは……一切、外へ漏らすな」

「承知いたしました」

向こうが一拍置き、探るように続ける。

「……お嬢様に、何か気取られましたか」

「気づいた」琥太郎は即答した。「それと、最上級の護衛を数人、裏で付けろ。できれば国際傭兵クラスだ。娘の身辺を守れ。……恐らく、もう目を付けられている」

受話口の向こうで、息をのむ気配がした。

「お嬢様、戻られたばかりで……そこまで状況をひっくり返すとは」

「……おい」

琥太郎が声を落として釘を刺す。

「あ、いえっ。失言でした。すぐ手配いたします」

通話が切れた。琥太郎は受話器を戻し、やれやれと首を振る。そのまま、どこか誇らしげな笑みがにじんだ。

「さすが、米崎の娘だ。腕がある。よく暴れる」

米崎梨央は、その夜は久しぶりにぐっすり眠った。

翌朝。起きてすぐスマホを手に取ると、光からのメッセージが一件届いている。

「収穫ゼロ」

梨央の胸が、すっと沈む。

不自然だ。米崎家の情報が、ここまで徹底して伏せられているなんて。

問題がないから隠されているんじゃない。問題が大きすぎるから、がっちり覆い隠している。風の一つも漏れたら困るから。

……面白い。

梨央は口元をわずかに吊り上げた。

ドアを開けて廊下へ出ると、リビングに人型のハンガーが置かれていた。掛かっているのは、赤のヴィンテージ調ベルベットのロングドレス。

恵美が腕を引いて、嬉々として言う。

「言ったでしょ? 今夜、ここでパーティーがあるの。梨央にぴったりのを選んだわ。あなたの宝石と合わせたら、これ以上ないくらい映えるはず。試してみて」

梨央は近づき、ドレスへ手を伸ばしかけ――横のゴミ箱に、引きちぎられたタグを見つけた。

また有名デザイナーの一点物。

この手のことには、もう慣れている。米崎家の誰かが渡してくるものは、たいてい桁が違う。なのに口では、いつも「大したものじゃない」とさらりと誤魔化すのだ。

梨央は今回は何も尋ねず、素直に二階で試着した。

そして夜。

農場は提灯の灯りで彩られ、駐車スペースには高級車がずらりと並んだ。招待客が揃った頃、ようやく主催者が到着する。まさに、満を持しての登場――。

恵美の隣に立つ梨央は、最高級のロールスロイスのスポーツモデルから降りてきた女を見て、眉をわずかに上げた。

鈴木朱音。

朱音は大勢の視線を浴びながら、梨央を見つけるなり心配そうな顔を作り、スカートの裾をつまんで小走りに寄ってくる。躊躇なく梨央の手を掴んだ。

「やっとまた会えた……家を出て、それからこっちに戻って……ここで、ちゃんとやっていけてる?」

皆の前で、気遣いと自責の仮面をきれいに貼り付ける。

「この数日、ずっと気になってたの。あなたのご両親が農場でジャガイモを作ってるって聞いてね。だから、私のパーティーは絶対ここでやろうって。ひとつはあなたの暮らしぶりを見たくて、もうひとつは――みんなの稼ぎ口になればと思ったの。少しでも生活が楽になるでしょ?」

口調は「あなたのため」。だが、その奥には見下ろした施しの匂いが混じっている。

その言葉に釣られたように、取り巻きの令嬢たちがぞろぞろと集まってきた。朱音が帰ってきた途端に擦り寄り、仲良しグループを名乗っている連中だ。

「朱音って、ほんと美人で性格までいいよね」

「あなたが戻った時は、あっちは冷たかったくせに。偽物の令嬢のくせに、偉そうに歓迎もしなかったんでしょ? それでも心配するなんて」

「そうそう。鈴木家で散々いい思いしたんだから、元の生活に戻っただけじゃん。何が可哀想なの?」

「朱音、優しすぎ!」

媚びた声が重なる。

梨央は表情一つ変えず、朱音の手をすっと振りほどいた。

「お気遣いなく。パーティーならパーティーらしくやって。私はあなたと何の関係もない。『お姉さん』って呼ぶのもやめて。私たち、親しくないでしょ」

朱音の笑みが、わずかに引きつった。

そのとき、誰かが梨央の首元を指差して声を上げた。

「あれ……ジェルシー先生のルビーのネックレスじゃない? でも、朱音が着けてるのが本物のはずだよね。先生のは着用貸出のみで、販売してないのに……なんで梨央さんも同じのを?」

ざわり、と空気が揺れた。視線が一斉に梨央へ刺さる。

朱音の顔色が変わり、次の瞬間、目の奥に薄い嘲りが走る。

「みんな、やめてあげて」

朱音は慌てたふりで制しながら、まるで梨央が偽物を着けているのを暴かれないよう庇うような仕草をする。

「お姉さんがこのネックレス好きなら、買って着けたっていいじゃない。今日はパーティーだし、綺麗にしたかったんでしょ」

火に油だった。

「綺麗にしたいからって、偽物を堂々と?」

「ジェルシー先生の作品って、販売してないのに。そんなの、デザイナーへの敬意がないよ」

「朱音のが本物なのに、なんで被せてくるの?」

「偽物で作品を汚してるのと同じ!」

誰もが当然のように、朱音のほうが本物だと決めつけている。

梨央は冷えた目で一同を見回した。

「私が偽物だって言うなら、根拠は?」

「田舎者が、そんな高いの買えるわけないでしょ。しかも販売してないんだよ?」

「今すぐ外しなよ。これ以上恥をさらさないで!」

正義ぶった声が飛び交い、指をさされ、ついには手を伸ばしてネックレスを引っ張ろうとする者まで出た。

「何を言ってるの」

割って入ったのは清水恵美だった。人混みを大股で抜け、梨央の前へ出る。警戒の色を隠さない眼差しで、朱音を一瞥した。

その瞬間――彼女は「田舎で畑をやる女」ではなくなった。背筋の通った、磨かれた優雅さと、鋭い威圧感。

目が合っただけで、周囲の空気がひやりと締まる。

恵美が冷ややかに言い放つ。

「娘に贈ったのは、確かに先生の真作よ。偽物なわけがない」

反論がすぐ飛んだ。

「そんな貧乏で、真作なんて買えるわけないでしょ? 販売されない、展示用のジェルシー先生の作品だよ? 何十億の価値があるのに、どうやって手に入れるの?」

言い終えるより先に、別の声が上がった。

「夏川武先生が来た!」

朱音は反射的に自分の首元のネックレスへ触れ、胸の内で勝ち誇る。

夏川武――彼女が苦労して招いた宝飾鑑定の権威。見る目のある人間だ。ここで白黒を付ければいい。

だが、夏川武は朱音の前を通り過ぎた。まるで最初から視界に入っていないかのように。

そして真っすぐ、清水恵美の前へ。

深々と頭を下げる。

「米崎奥様、ご無沙汰しております。近頃はお変わりありませんか」

一瞬、場が凍りつく。

大御所と呼ばれる宝飾師が――「田舎の農婦」に、ここまでの敬意を払う?

ざわめきが、遅れて爆発した。

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