第2章 彼女の夫

一瞬、場が凍りついた。

下山柚奈の顔から血の気が引き、手にしていた牛乳が「ぱんっ」とテーブルに落ちた。目尻を赤くして、山﨑蓮を見る。

「谷口美桜」

山﨑蓮が氷のような声で名を呼び、谷口美桜の前まで歩み寄ると、その手首を乱暴につかんだ。

「何のつもりだ? ここで恥さらして、誰に見せたいんだよ!」

不意を突かれた谷口美桜はよろめいて後ずさり、腰をテーブルの縁にぶつけた。痛みに「……っ」と息を漏らし、そのまま床へ崩れ落ちる。

白いスラックスに、小さな赤色がじわりと滲んでいった。

「きゃっ!」

下山柚奈が悲鳴を上げ、すぐに口元を押さえる。視線は狼狽しながらも、どこか隠しきれない歓びを含んでいた。

「美桜……あの、そういう日なら、ちゃんと気をつけなきゃ……。こんな状態で商談って、さすがにみっともなくない?」

それから山﨑蓮へ向き直り、弱々しく首を振る。

「蓮、美桜を責めないで……本当に具合が悪いのかも……」

山﨑蓮は、谷口美桜のズボンについた血痕を見下ろし、顔を青黒くした。

昨夜――確かに見た。シーツの上の、小さな赤。

あれは自分が乱暴だったせいだと思い、何も聞かなかった。だからこそ今、胸の底からこみ上げるのは、羞恥と怒りだけだった。こいつはわざと、俺に恥をかかせている。

「谷口美桜、お前、自分の立場が分かってないのか?」

声が低く、荒れる。

「こんな卑怯な手で人を不快にして、何がしたい。今日の席がどれだけ重要か、分かってるのか!」

空気が、ひび割れたガラスみたいに張り詰めた。

谷口美桜はゆっくりと立ち上がる。腰の痛みで額に冷たい汗が細かく浮くのに、それでも唇は笑みの形を崩さない。

白いスラックスについた埃を手で払う。次にコートを脱ぎ、腰に結んで、赤い染みを隠した。

まるで書類を整えるみたいに、落ち着いた手つきで。

「私、自分の立場は分かっています」

小さく息を吐き、静かに言う。

「私は山﨑グループの首席秘書。社長の業務補佐、スケジュール管理、会議資料の準備、案件の進捗確認――それが仕事です」

言葉は淡々としているのに、刃のように鋭い。

「でも、勤務時間外に社長の大切な人へ薬や牛乳を届けることは含まれません。体調が悪いのに、代わりに酒を受けろと命じられるのも、私の職務ではありません」

山﨑蓮は、彼女の蒼白い顔を見つめ、眉間に深い皺を刻んだ。

いつもと違う。あまりにも、平然としている。

それが気味悪くて、無意識に一歩、近づいてしまう。

「蓮……」

下山柚奈が胸元を押さえ、青い顔で彼にもたれかかった。

「わたし、ちょっと……めまいが……」

山﨑蓮は即座に彼女を支え、注意は一瞬でそちらへ移った。

「大丈夫か? 病院行くぞ」

下山柚奈は、さっき飲み込んだ薬を指さす。

「成分が分からなくて……アレルギーかも。息が、少し苦しい……」

山﨑蓮の表情がすっと冷えた。

「薬ひとつ買うことすらまともにできないのか」

吐き捨てるように言う。

「わざとだろ」

そして谷口美桜へ視線を投げる。

「お前も一緒に来い。柚奈がアレルギー起こしたのはお前のせいだ。面倒を見るのが筋だ」

「何ぼさっとしてる」

山﨑蓮は下山柚奈を抱き上げ、振り返って怒鳴った。

「車、出せ!」

谷口美桜は深く息を吸った。

その場の人間にだけ淡く頭を下げ、何も言わずに後を追う。腰の痛みが波のように押し寄せても、倒れない。倒れたら、負ける気がした。

車内。

下山柚奈は山﨑蓮の胸に顔を埋め、小さくすすり泣いた。

「蓮……わたしってダメだよね。いつも迷惑ばかり……美桜みたいに、強くて自立してなくて……」

山﨑蓮は背を撫で、声だけは優しく整える。

「お前はつらいことがあったばかりだ。体が弱るのも当然だろ」

そして、運転席で黙っている谷口美桜を一瞥する。

「それに、あいつは首席秘書のくせに、こんな小さな用事すらできない。褒めるほどの人間じゃない」

谷口美桜はハンドルを握る手に力を込め、返事はしなかった。

秘書。

薬ひとつ買えない、失格の秘書。

救急外来。

皮膚科の医師たちが呼ばれ、検査の末に出た結論は、接触による刺激で皮膚が赤くなっただけ――アレルギーと呼ぶほどではない、というものだった。

それでも山﨑蓮がいる以上、医師は薬を処方し、念のための経過観察を勧めた。

ベッドに横たわった下山柚奈は、か細い声で言う。

「蓮……もう大丈夫。退院できるよ……」

「医者の言う通りにしろ」

山﨑蓮はきっぱり言い切る。

振り返り、まだ立っている谷口美桜へ、いつもの調子で命じた。

「柚奈にぬるま湯を持ってこい。43度だ。それから清潔なタオルを買って、薬局で薬も受け取れ」

谷口美桜は一言もなく、廊下へ出た。

戻る途中、朝に彼女を担当していた看護師の前田に鉢合わせる。

「谷口さん、先生、数日入院して安静って言ってましたよね? どうして黙って退院しちゃったんですか。抗炎症薬、ちゃんと飲んでます?」

そこへ、山﨑蓮が通りかかる。

その言葉を聞いた瞬間、眉がわずかに寄った。

「入院? 生理痛って、入院するほど重くなるものなのか?」

前田が説明しようとした、その一瞬――

谷口美桜が先に口を開いた。

「何でもありません。もう回復しています」

手にしている袋を差し出す。

「頼まれたもの、揃えました。中に行きましょう」

けれど山﨑蓮は動かなかった。取り繕うような口調を見抜いたのか、顔色がさらに険しくなる。

「俺はお前の夫だぞ。心配して何が悪い」

声に苛立ちが混ざる。

「その態度は何だ」

夫?

谷口美桜は、笑いそうになった。

偽の結婚証明書で彼女を三年も縛りつけておいて――まだ平然と「夫」を名乗れる。

それが、山﨑蓮という男だった。

前田は覚えている。谷口美桜は一人で手術を受け、会計をし、術中には大出血しかけた。

目の前の男を見上げ、冷ややかに鼻で笑う。

「よくも夫なんて名乗れますね。奥さんに雑用させて。あなた、彼女がさっき……」

「さっき、何をした?」

問いかけが刺さるように飛んだ、その瞬間。

「蓮!」

下山柚奈が観察室から出てきて、泣きそうな声を上げた。

「腕がすごく痒い……お薬、まだ?」

山﨑蓮の追及は喉の奥で止まった。

谷口美桜の手から袋を奪い取るように受け取り、短く言い捨てる。

「ここで待ってろ」

そして大股で下山柚奈の方へ向かっていった。

谷口美桜は、黙ってその背中を見送る。

分かっている。

下山柚奈が現れた瞬間、彼の選択はいつだって彼女だ。

赤の他人ですら、彼女の顔色の悪さに気づき、守ろうとする。

それなのに、彼女が何年も愛してきた男こそが――一番深く彼女を傷つける。

それでいい。

そもそも、知られたくなかった。

今日、自分が――彼との子どもを流したばかりだなんて。

知ったところで、何が変わる?

残りの30日、ただ静かに過ごしたい。余計な面倒は増やしたくない。

視界がふっと白く霞む。

次の瞬間、谷口美桜の身体は力を失い、どさりと横へ倒れ込んだ。

「谷口さん!」

……

谷口美桜は、割れるような頭痛で目を覚ました。

窓の外には陽光。

ぼんやりと、ここが自宅だと理解する。

丸一日眠っていたのに、身体の痛みは少しも引いていない。

彼女は無理やり身を起こし、寝室を出た――そして足が止まる。

山﨑蓮が、リビングのソファにきちんと座り、ニュースを眺めながらコーヒーを飲んでいた。

彼が家の朝にいるなんて。

三年間で、十回もない。

「起きたか」

山﨑蓮は顔を上げ、蒼白な彼女を見ても、目は冷たいままだ。

「起きたなら支度しろ。9時までに会社へ来い。柚奈との業務引き継ぎに遅れるな」

谷口美桜はドア枠に手をつき、指先に力が入る。

手術に加えて丸一日何も食べていない。立っているだけで、足元が揺れた。

「体調が悪いんです。今日は休めませんか?」

「体調?」

山﨑蓮は嘲るように目を細める。

「どこがだ。生理痛か? よく出来た演技だな」

立ち上がり、谷口美桜の前へ詰め寄る。背の高さが、無言の圧力になる。

「柚奈はお前を心配して、具合が悪いのに医者に聞いてきた」

「医者は言ってたぞ。ただの生理痛だ。抗炎症薬も飲んでない。入院もしてない」

声が冷える。

「谷口美桜。昨日倒れたのは、誰に見せるための芝居だ?」

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