第3章 異変

谷口美桜ははっと顔を上げた。その視線の先にあったのは、山﨑蓮の目に宿る露骨なうんざりだった。

拳をきつく握りしめる。こみ上げてくるものを堪えようとしても、目の奥が勝手に熱くなる。

――そうだよね。下山柚奈が探りを入れたなら、欲しい答えなんていくらでも拾ってこられる。

そして山﨑蓮は、いつだって彼女の言葉だけを信じる。

谷口美桜は一度、瞼を閉じた。喉の奥が砂を噛んだみたいに乾く。かすれて力のない声がこぼれた。

「……分かった。後で会社に行く」

「被害者ぶるの、やめろ」

山﨑蓮の声が刺さる。

「俺が部長の席を柚奈にやったのが気に食わない。だから目障りで、あいつを恥かかせてやろうとしてるんだろ?」

次の瞬間、彼の指が顎を掴み上げた。冷えた目が、さらに冷たくなる。

「昔だってそうだ。お前は陰で柚奈の評判を落として、薬まで盛って、山﨑樹と結婚せざるを得ない状況に追い込んだ。で、自分は善良で可哀想な顔して俺の隣に立って……俺に責任を取らせる形で結婚までさせた」

「お前が腹黒いのは前から分かってた。それでも“山﨑夫人”の座はくれてやった」

「谷口美桜、まだ足りないのか? これ以上欲張るなら――夫婦の情けなんて残さないぞ」

言葉の一つ一つに嫌悪。口調の一つ一つに施し。

谷口美桜の全身が、氷水に沈められたみたいに冷えた。――ああ、ようやく分かった。彼が自分をどう見ているのか。

三年前、山﨑家は外に流れていた“本物の御曹司”山﨑樹を見つけ出し、山﨑蓮が血縁のない存在だと明らかになった。

対外的にはすぐに公表されなかったが、内情を知る者たちの目には、山﨑蓮という“偽物の御曹司”の立場は一気に居心地の悪いものになっていた。

本来なら彼のものだった後継者の座も、少しずつ山﨑樹へ傾いていく。

本来、山﨑蓮と政略で結ばれるはずだった下山柚奈は、彼の権力が抜かれ、身の上の真実を知るや否や、狙いを変えた。

山﨑樹に薬を盛り、メディアにホテルで一夜を共にする写真を撮らせたのだ。

ニュースが出たあと、下山家は山﨑樹に下山柚奈との結婚を迫り、山﨑蓮は完全に折れてしまった。

その隣にいたのは、谷口美桜だった。落ちた彼を支え、立ち上がらせ、もう一度這い上がるまで寄り添い続けた。

それなのに――誰も予想しなかった。

“本物の御曹司”山﨑樹はビジネスに興味がなく、結婚後は下山柚奈を連れて海外へ渡り、病を抱えたまま三年で亡くなった。

山﨑家は結局、再び山﨑蓮に全てを賭けた。

彼は容赦なく、山﨑家の支援を拒み、ゼロから自分の力を証明してみせた。事業で道を切り拓き、その勢いで山﨑家への主導権まで取り返し、再び盤上の中心に立った。

その三年間、谷口美桜は彼のために走り続けた。案件を取るために、何度も酒席で意地悪く弄ばれ、パーティーでは陰湿に貶められた。

頭を下げ、飲まされ、胃から血が出ても、熱で救急レベルになっても、一日だって休まなかった。

愛していた。捨てるなんて考えたこともない。

踏ん張ってきた毎日は、ただ、彼の役に立ちたかっただけなのに。

山﨑蓮の中で“無垢”なのは下山柚奈で、谷口美桜が削ったものは全部――「腹黒いから、当然の報い」になる。

愛する相手を間違えた罰なら。もう充分じゃない?

ぽたり、と。

堪えきれなかった涙が落ちた。けれど喉が詰まり、何ひとつ言葉にならない。

山﨑蓮は、指先に伝う雫に眉をしかめた。赤い目、青白い頬。その様子が、なぜか癪に障る。

――演技は得意だ。昔から。

「ふん」

短く鼻を鳴らし、彼は背を向けてスマホを手に取った。

「柚奈はお前のことが心配で、一晩中まともに寝てない。今から迎えに行く」

淡々と告げ、さらに続ける。

「体も弱いし、仕事も引き継いだばかりだ。南城の案件は当面、お前が補佐しろ。ちゃんと教えてやれ」

玄関まで行ったところで、声がいっそう硬くなる。

「お前は――時間厳守で来い。やるべき仕事をやれ。柚奈の足を引っ張るな。分かったな?」

バンッ!

扉が乱暴に閉められ、衝撃が鼓膜まで痛むほど響いた。

部屋はまた静まり返った。静かすぎて、骨まで冷える。

どれほど立ち尽くしていたのか。

スマホのアラーム音が鳴って、ようやく谷口美桜は壁に手をつき、ふらりと浴室へ向かった。

鏡の中には、疲れ切った女がいた。深く息を吸い、冷たい水を顔に浴びせる。少しだけ意識が戻る。

メイクでクマとやつれを塗り潰し、最後に黒のスーツ。長い髪をきっちり束ねる。

鏡の中の自分は、また“冷静で有能で隙のない谷口さん”に戻っていた。

――ただ、目の光だけが。完全に消えていた。

8:50、山﨑グループ。

オフィスに足を踏み入れた瞬間、違和感が走った。

自分のデスクから私物が消えている。代わりに置かれていたのは、値の張る限定バッグ、洒落たマグカップ、そして瑞々しい百合の花束。

全部、下山柚奈の好み。

元々デスクにあったものは、雑多な荷物が積まれたテーブルへ追いやられていた。その上、腰ほどの高さまで揃えられた書類の山。

「谷口さん、来てくれたのね」

下山柚奈が山﨑蓮のオフィスから出てくる。品のいい笑みを貼り付けたまま。

「蓮がね、私がいきなり製品開発部に行くのは不安だって。だから当分、秘書室で慣らすことになったの」

彼女は角の席を指さした。

「それ、蓮が私に覚えさせたい案件の資料。悪いけど整理してくれる? 退勤までに私のところへ」

谷口美桜は何も言わず立ち上がり、黙って角へ向かって片付けを始めた。

――だが、下山柚奈はそれで終わらせる気がない。

「そうそう。蓮が言ってたわ」

軽い調子で追い打ちが来る。

「明日の南城のプロジェクト、発足会は私があなたの代わりに出ることにしたの」

「あなた、準備は完璧よね? 私が頼んで、明日はあなたを助手として連れて行くことにしてもらったの。横山社長に突っ込まれても、上手く答えてね。私と蓮の信頼を、裏切らないで?」

谷口美桜の手が、わずかに止まった。

南城プロジェクト。

彼女が製品開発部長の席を勝ち取るために、心血を注いで奪い取った案件だ。

今、その部長は下山柚奈。

明日、何かが起きれば責任を取らされるのは自分。

――笑える。

下山柚奈がここまでして自分を苦しめようとするのは、正直、回りくどい。

だって谷口美桜は、山﨑蓮そのものをもう要らないのに。部長の椅子に何の未練がある?

谷口美桜は反論しなかった。

淡々と、発足会の進行から想定問答まで、すべてを細部まで落とし込んだドキュメントを作り、下山柚奈へ共有した。

翌日、南城プロジェクト発足会。

ステージの上。

下山柚奈はドレスを纏い、完璧なメイクで、谷口美桜が用意したスピーチ原稿をよどみなく読み上げる。

記者の質問には、助手として谷口美桜が前に出て回答した。

会が進むほど、下山柚奈は華やいでいった。山﨑蓮は生配信まで手配し、彼女は業界で一気に注目を集める。

谷口美桜は、ただ静かにそれを見ていた。胸は不思議なほど動かない。

最後の仕事を終え、会場を離れようとした――そのとき。

後方から記者が立ち上がり、声を張った。

「内部情報によれば、谷口さんは案件を取るために深夜、横山社長と何度も密会し、ホテルで撮られたという話もあります! 社員がそんな手段で案件を取るのを、下山部長は黙認していたんですか!」

会場がざわっと沸いた。

カメラと視線が、一斉に谷口美桜と下山柚奈へ向く。

想定外の一撃に、下山柚奈の顔から血の気が引いた。目が泳ぐ。

「馬鹿げた話だ」

山﨑蓮が鋭く遮り、すぐに壇上へ上がって下山柚奈を背に庇った。

「下山部長は帰国したばかりだ。彼女とは無関係だ。彼女を巻き込もうとする発言は、悪質な誹謗中傷に当たる」

強い態度で切り捨てたのは、“下山柚奈だけ”だった。

その瞬間、谷口美桜は一気に矢面に立たされる。

「では、谷口さんについては?」

記者が食い下がる。

「写真は鮮明ですし、日時も確定しています!」

そう言って、印刷された写真を数枚、掲げた。

写っているのは、ホテルの入口付近で横山社長と並ぶ谷口美桜。角度のせいで距離が近く見え、親密な接触にも見える――そんな、想像を煽る一枚だった。

山﨑蓮の表情が、今にも水滴が落ちそうなほど暗く沈む。

下山柚奈が宥めるように彼の手首へそっと触れ、一歩前に出た。

「山﨑グループは、評判を何より大切にしています。正々堂々を旨としており、取引のために社員の身体を差し出させるようなことはありません」

「ただ、もし社員個人の行動であったなら……会社としては予測もできませんし、私たちも被害者です。ここでお約束します。必ず徹底的に調査し、皆さまに真実をお示しします」

「つまり、谷口さんが私利私欲で、横山社長のベッドに自分から――そう理解していいんですか?」

記者が畳みかけた。

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