第5章 谷口美桜のために

拘留所は、谷口美桜が想像していた以上に冷え切っていた。

薄っぺらい寝具。ごつごつしたベッド板。空気に漂う、吐き気を誘うような臭い。

隅へ身を縮めたまま、小腹の痛みが波のように押し寄せる。……また、血が出た気がした。

午前3時。

不意に、扉が開いた。

同じ留置服を着た女が二人、ずかずかと入ってくる。目つきが悪い。

「谷口美桜?」

先頭の赤毛の女がガムをくちゃくちゃ噛みながら、足先で彼女を小突いた。

「山﨑グループの、寝て成り上がった秘書ってアンタ?」

美桜は身を起こし、警戒の目で二人を見た。

「顔は清楚っぽいじゃん」

赤毛の女が近づき、顎をつまんで持ち上げる。

「でもさ、身体が汚いんだよね。残念」

「……何のつもり?」

美桜はできるだけ平静を装った。けれど胸の奥が、ひやりと冷える。

「分かってるでしょ。山﨑社長が言ってた。中で大人しくなって、外で余計なこと喋るなって」

言い終わるなり、赤毛の女が――ぐしゃり、と腹へ蹴りを叩き込んだ。

「……っ!」

痛みで身体が折れ、美桜は口を開いたまま声が出ない。

息を戻す暇もなく、赤毛の女は髪を鷲づかみにして引きずり下ろす。

「なんで殴られてるか分かる? 調子に乗ったからだよ。社長が面子立ててやったのに、外に捨てに行くとかさ」

手が離され、美桜は床へ投げ出される。膝がコンクリートにぶつかり、鈍い痛みが走った。

起き上がろうとした瞬間、また膝を蹴られ、がくんと膝立ちになる。

次いで、雨あられの拳と蹴りが容赦なく降ってきた。

美桜は丸まり、頭と腹をかばう。それでも拳は腰に、背中に、重たく刺さる。

「覚えとけよ。口のチャック」

赤毛の女が美桜の指を踏みつけ、ぎり、と体重をかけた。

「外に出たら、言っていいことと悪いこと、ちゃんと分かってんだろね。変なこと喋ったら――」

まだ続けるつもりらしい。

横の女が小声で言った。

「顔はダメ」

「……チッ」

赤毛の女は美桜の耳元へ顔を寄せ、声を落とす。

「次は、こんな程度で済まないから。行くよ」

再び扉が開き、二人は素早く抜けていった。

美桜は床に転がったまま、必死に扉の外へ目を向ける。

そこでようやく、刑務官が遅れて姿を現した。

胸の名札が見える。田村玲子。

「田村さん……助けて」

美桜は震える手を伸ばし、縋るように見上げた。

田村玲子は眉をひそめたものの、扉を開けて彼女を医務室へ連れていった。

暴行に加え、流産による出血。医師の診察が一通り終わったあと、告げられたのは最悪の知らせだった。

――今後、妊娠できない可能性が高い。

拘留所へ戻る廊下で、美桜は全身が氷に包まれたように感じた。

子どもは消えた。結婚は偽物だった。

そして今、身に覚えのない罪名で、もう二度と母親になれないかもしれない。

田村玲子が房へ送り届けるとき、声をひそめて言った。

「誰に喧嘩売ってもいいけど、山﨑蓮にだけは手ぇ出しちゃダメだよ。山﨑家のやり方、えげつないから」

その通りだ。

誰を好きになってもよかったのに。どうして、絶対に自分のものにならない男を求めたのか。ほら、これが報いだ。

美桜はかすれた声で尋ねる。

「……本当に、あの人がやらせたの?」

田村玲子の唇がわずかに動いた。だが結局、何も言わない。

ただ、気の毒そうな目で美桜を見るだけだった。

彼以外に、拘留所の中でこんなことをやらせられる人間がいる?

美桜は暗闇の中に座り込むと、ふっと笑いが漏れた。

笑い声は次第に大きくなり、喉を裂くように尖って――泣き声に似ていった。

その頃、山﨑グループ社長室。

山﨑蓮はソファに腰を下ろし、向かいにいる横山社長へ契約書を滑らせた。

「今回の件、山﨑グループとしては利益を3ポイント譲ります」

蓮の声は淡々としている。

「条件は――提携の継続。それと、対外的に『谷口美桜とは不適切な関係ではない』と明言していただくこと」

横山社長が眉を上げる。

「明言だけで?」

「警察のほうは、こちらで手を回します」

蓮は目を伏せたまま言った。

「彼女は大事にはならない。ただ、時間が要る」

「山﨑社長も、情が深い」

横山社長は笑うとも嘲るともつかない顔で眉を吊り上げる。

「ただ、これをやると下山部長が機嫌悪くなるんじゃ?」

蓮の目が冷たく光った。

「それは俺の問題だ」

「もちろん、もちろん」

横山社長は慌てて頷き、さっさとサインをする。

「では谷口さんの件は、山﨑社長にお願いするということで」

「ご心配なく」

蓮は顔色を落とし、立ち上がって客を送った。

横山社長が去っても、蓮はオフィスに残ったまま、黙って谷口美桜の元デスクを見つめ続ける。

スマホが震えた。下山柚奈からだ。

【蓮、まだ会社? スープ煮たんだけど、持って行こうか?】

画面を見つめても、返事はしない。

脳裏をよぎるのは、美桜が連れて行かれたときの背中。痩せて、頼りなく見えるほど薄いのに、背筋だけは真っ直ぐだった。

あの頃も、そうだった。

山﨑家に見放され、周囲が次々と離れていく中――最後まで残ったのは、あの女だけだった。

だが、あの写真のことを思い出すと。

蓮は深く息を吸い、胸の奥にざらつく苛立ちを押し込めた。

あれほど自分しか見えていなかった女が、横山社長のベッドに上る?

……馬鹿げている。狂っている。

下山柚奈はビルの下で、灯りの点いた社長室を見上げていた。

山﨑蓮が、彼女のメッセージをすぐ返さなかったのは初めてだ。

横山社長の車は今しがた出ていった。なら蓮は忙しくないはず。なのに返事がない。

――谷口美桜のことを考えているの?

柚奈は弁当箱をきつく握りしめ、会社へ向かった。

3分後。社長オフィスの扉の前で息を整え、入る。

「蓮、スープ作ってきた」

蓮は軽く頷いただけで、何も言わない。

柚奈がテーブルにスープを置くと、目に入ったのは、サインしたばかりの契約書だった。胸がひゅっと冷える。

「蓮……横山社長に3ポイントも譲ったの? 多すぎない?」

この案件、見込み利益は5ポイント程度。半分以上を渡す計算だ。

柚奈の声がわずかに震える。

「……美桜のため?」

「世論を早く鎮めるためだ」

蓮は窓辺に立ち、感情のない口調で言った。

「拘留所に1日長くいるほど、株価も1日分落ちる」

柚奈は唇を噛み、背後から彼を抱きしめる。

「蓮、情があるのは分かる。でも会社は、あなたが一から作ったんだよ。金を無駄にしてほしくない」

「美桜は結局……」

声が少しだけ軽くなる。

「自業自得だよ」

「自業自得」

その言葉に、蓮の眉間がかすかに寄った。次の瞬間、柚奈の腕を外す。

「トイレ行ってくる」

背を向けて出ていく蓮を見送りながら、柚奈の目に滲む嫉妬が隠し切れない。

谷口美桜のために、ここまで利益を手放す。

――そんなに大事なの?

そのとき、デスクの上でスマホが鳴った。

柚奈は迷いなく通話を取る。

「山﨑社長、大変です……谷口さんが拘留所で殴られて……先に保釈できませんか?」

助手の太田美咲の、泣き声混じりの声。

谷口美桜が拘留される際、緊急連絡先に太田美咲の番号が書かれていたのだろう。

柚奈は口元だけ笑い、声は厳格に整えた。

「太田さん、今保釈したらメディアに撮られる可能性が高い。そうなれば『山﨑社長が犯罪者を庇った』って書かれて、明日もっと株価が落ちる」

「でも、谷口さんが――」

「太田美咲」

柚奈は遮った。

「あなたが彼女と仲が良いのは分かる。でも会社の利益が最優先。これは山﨑社長の意向でもある。そうだよね、蓮?」

空の椅子へ視線を向け、そのまま言葉を重ねる。

「山﨑社長も私の判断が正しいとおっしゃってる。この件は社長が処理するから、余計なことはしないで。いい?」

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