第6章 殴り殺されて当然だ

下山柚奈は通話を切ると、のんびりと山﨑蓮のコーヒーを手に取り、一口含んだ。

殴られるだけ? 中で死ねるなら、それに越したことはないのに。

拘留三日目。拘留所の扉が、ようやく開いた。

「谷口美桜。出ていいわ」

田村玲子が低い声で告げた。

隅に座り込んでいた谷口美桜が、ゆっくり顔を上げる。

「……出る?」

「証拠不十分。重大な損失も出ていない。現時点ではあなたの責任は追及しない」

田村玲子は書類を差し出した。

「署名したら帰っていい。電話はつながるようにしておいて。必要があれば、また呼ぶから協力して」

ペンを握る指が、かすかに震える。

昂ぶりじゃない。弱りきっているだけだ。

精神も、体も、三日間ずっと削られた。

たった三日で、さらに一回り痩せた気がする。

食べ物は喉を通らない。生き延びたのは、ほとんど点滴のブドウ糖のおかげだった。

署名を見届けながら、田村玲子はどこか気の毒そうに言った。

「外に出たら……ある種の人間からは、距離を置きなさい」

谷口美桜のペン先が止まる。

「そもそも、あの件は拘留できるだけの証拠が足りないの。横山社長も後から言い分を変えた。20万はプロジェクトのボーナスで、振込先を間違えただけ……写真も、角度の問題だって認めたわ」

一拍置いて、田村玲子は続ける。

「本来なら初日に出られてた。でも……誰かが上から押さえて、三日も引き延ばした」

谷口美桜は俯いたまま、最後の一画を書き終える。

「……ありがとうございます」

日付を目にして、薄く息を吐いた。

あと25日。

かつて命みたいに愛したくせに、今ではもう二度と愛せない男から――完全に離れられる。

拘留所を出た瞬間、陽射しが突き刺さって目が開けられなかった。

手で庇って、ようやく気づく。

門の前に、黒いベントレー。

山﨑蓮と下山柚奈が、車の横に立っていた。

下山柚奈が先に駆け寄り、心配と優しさをちょうどいい分量だけ貼り付けた笑顔で言う。

「美桜、やっと出てきた……! この数日、本当に心配でたまらなかったの」

手を伸ばして谷口美桜の手を取ろうとする。

谷口美桜は反射的に一歩退いた。

その動きに、山﨑蓮が眉をひそめる。

下山柚奈は拒絶に気づかないふりのまま、言葉を重ねる。

「蓮は本当は来ないつもりだったの。でも私がお願いしたの、必ず迎えに来てって。だって……あなた、長年蓮のそばにいたんだもの。ひとりで寂しく帰らせるなんてできないよ」

気遣いの形をしているのに、言葉の一つ一つが針みたいで。

谷口美桜の感覚は、もう麻痺していた。

返事をしない。顔も上げない。

この二人とは、行きたくない。

……それでも、今はまだ逃げきれないと分かっている。

「乗れ」

山﨑蓮が言った。感情のない声。

谷口美桜は動かない。

「何だ。俺に迎えに来させておいて、まだ招待状でも要るのか?」

山﨑蓮の声が冷えた。

谷口美桜はふっと笑う。

「……そんな、滅相もないです」

薄く、軽い笑み。なのに瞳には、笑いの欠片もない。

彼女は無言で車へ向かい、後部座席のドアを開けて座り込んだ。

二人を一度も見ない。

下山柚奈が一瞬だけ目を丸くする。

――騒がないの? 従うの?

瞳に苛立ちが走るが、すぐに消し、同じく後部座席へ滑り込んだ。

運転席に乗り込んだ山﨑蓮が、バックミラー越しに谷口美桜を一瞥する。

たった三日で、何をこんな姿にして……誰に見せたいんだ。

車が走り出す。エアコンの冷気が、ぶわっと頬を打った。

谷口美桜が身につけているのは、拘留された日のシャツだけだ。

ぞくりと肩が震える。

「寒い?」

下山柚奈が自分のコートを差し出す。

「これ、先に羽織って。風邪ひいちゃうよ」

ハイブランドの服。

山﨑蓮がいちばん好きなブランド。

さらに淡い香水が混ざっている。

山﨑蓮が「好きだ」と言った、あの香り――谷口美桜も昔は使っていた。でも「お前には似合わない」と言われて以来、二度と触れていない。

「いりません」

谷口美桜は押し返した。

山﨑蓮がエアコンを弱めようとして伸ばした手が、ぴたりと止まる。

そして引っ込めた。

「凍えさせとけ」

車内の空気が、ぎし、と軋む。

下山柚奈が唇を噛み、やがて小さく息を吐いた。

「美桜、ごめんね。あなたのプロジェクトを引き継いだの……私、蓮の役に立ちたかっただけで、あなたの気持ちを考えてなかった」

それから山﨑蓮へ向き直り、罪悪感たっぷりの声を作る。

「蓮……私、また一般職からやり直す。部長の席は美桜に返すよ」

「何言ってる」

山﨑蓮が遮る。

「その席は最初からお前のものだ。谷口美桜じゃ荷が重い。能力が足りない」

バックミラー越しに谷口美桜を射抜き、きつく言い放つ。

「谷口美桜。柚奈が心配してるのに、いい加減にしろ。恩知らずな態度を取るな」

谷口美桜が、静かに口を開く。

「山﨑社長。あの20万、調べはついたんですか?」

車内が、すっと無音になる。

下山柚奈の視線が揺れた。すぐに谷口美桜の手を取ろうとする。

「横山社長が誤解だって言ってたし、もう大丈夫だよ」

「山﨑社長に聞いています」

谷口美桜は手を振りほどき、山﨑蓮を真っ直ぐ見据えた。

「山﨑グループの首席秘書が贈賄の疑い。そんな大事を、結案で済ませるんですか。20万は誰の口座に入った。写真は誰が撮った。誰がメディアに流した」

淡々としているのに、引かない声。

答えが出るまで、終わらせないという目。

山﨑蓮は黙った。

調べている。だが言いたくない。

口にした瞬間、もっと面倒なものが引きずり出される。

送金のIPが山﨑グループ内部だったこと。

撮影した記者が下山柚奈の大学の同級生だったこと。

写真がメディアに届いた時刻が、下山柚奈の着任直後だったこと。

関係ない――そう信じたい。彼女は帰国したばかりで、知るはずがない。

だが、表に出れば矛先は彼女へ向く。そんな展開は、絶対に許せない。

「警察が結案した」

最後に山﨑蓮は、それだけを結論として突きつけた。

「結案……?」

谷口美桜が鼻で笑う。

「じゃあ私は、三日も閉じ込められて当然? 殴られて当然? 中で死にかけても、当然?」

「殴られた?」

山﨑蓮が急ブレーキを踏む。キーッ、と耳を裂く音。

衝撃が鼓膜を震わせ、谷口美桜は思わず顔をしかめた。

山﨑蓮が身をひねり、谷口美桜の手首を鷲掴みにする。

「誰が殴った」

力が強い。ちょうど、腕の痣に指が食い込む位置だった。

谷口美桜が息を呑む。

袖が乱暴に引かれ、前腕に広がる青紫が露わになる。

山﨑蓮の顔色が、さっと変わった。

「……どういうことだ」

声には、怒気が混ざっている。

谷口美桜は痛みを堪え、目だけで嗤う。

「山﨑社長、何を演じてるんですか。私が中でどんな目に遭ってたか――あなたがいちばん分かってるはずでしょう」

その嘲りに、山﨑蓮の指がさらに締まる。骨が軋むほど。

「蓮、やめて! 美桜、怪我してる!」

下山柚奈が強引に彼の手を引き剥がし、用意していた台詞を滑り込ませる。

「拘留所なんて、いろんな人がいる場所だよ。喧嘩だってある」

谷口美桜の袖をめくり上げる。そこにある傷は、目を背けたくなるほど生々しい。

「24時間監視もあるし、刑務官も巡回してる。なのに、どうしてここまで?」

下山柚奈は不思議そうに首を傾げ――そして、何かに気づいたように目を見開いた。

「……まさか、保外のために自分で傷つけた、とか? だって顔には傷がないもん」

谷口美桜の口元に、冷たい笑みが乗る。

「そうですね。どうして顔には傷がないんでしょうね」

視線を、山﨑蓮へ。

――表に出る必要があるから。

――山﨑グループの体面と、下山柚奈の顔を潰さないために。

殴られるのはいい。でも“見える場所”は駄目だった。

山﨑蓮は眉間に皺を寄せ、その笑みを刺々しく感じながら、前を向いて再び車を発進させた。

「自分で傷を作る力があるなら、働く力もある」

冷えた声が落ちる。

「明日から会社に来い。この三日は無断欠勤扱いだ」

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