第7章 彼女を責めるな

翌日、会議室の空気は重く、息が詰まるほどだった。

机の両側には役員たちがずらりと並び、上座には山﨑蓮、そのすぐ隣には下山柚奈が座っている。

一方で、谷口美桜に割り当てられた席は、いちばん端の隅だった。

「本日の会議の目的は、南城プロジェクト発足会で発生した世論炎上と、それによって生じた実害の総括だ」

山﨑蓮の声は、氷のように硬い。

「当事者である谷口美桜には、出席のうえ経緯を説明してもらう」

その瞬間、室内中の視線が谷口美桜へ突き刺さった。侮蔑、値踏み、面白がる色。どれひとつとして温度がない。

下山柚奈は、いかにも気遣っているような顔で口を開く。

「蓮、ここまでしなくても……美桜には、もう十分きつい罰になってるんじゃない?」

ひと呼吸置き、眉を曇らせた。

「たしかに横山社長が説明はしてくださったけれど、それでも世間の反応で会社が受けた影響は小さくないの」

「間違えたなら、責任は取るべきだ」

山﨑蓮はぴしゃりと遮り、そのまま谷口美桜を見た。

「始めろ」

谷口美桜は深く息を吸い、立ち上がろうとした。だがその前に、下山柚奈が一歩先んじてプロジェクターを起動する。

「谷口さんに説明していただく前に、まずはこちらをご覧ください」

スクリーンに映し出されたのは、株価の推移とネット上の反応をまとめた分析資料だった。

「発足会のあと、会社の株価は3日連続で下落しました。横山社長の釈明も効果は限定的で、『山﨑グループの女性秘書による枕営業』という関連ワードは、今もなおトレンドに残っています」

彼女は画面を示しながら続ける。

「こちらが拡散されたコメントです。『やってないなら、こんな噂が出るわけない』『この谷口さんって、3年前もこうやってのし上がったんでしょ』――こうした声が、会社の信用を大きく傷つけています」

会議室のあちこちで、ひそひそと囁きが広がった。

下山柚奈は小さくため息をつく。

「それと、もうひとつあります。横山社長は表向き釈明してくださいましたけれど、あちらの株主の一部が提携継続に難色を示しているそうです。今朝もお電話があって、このまま騒動が収まらなければ、案件はいったん保留になるかもしれないと」

経理部長の水原瑞希が眉をひそめた。

「うちはもう3ポイント譲歩してるのよね。それでも足りないの?」

「3ポイントの譲歩は、あくまで提携維持のためです」

山﨑蓮の視線が、すっと谷口美桜へ流れる。

谷口美桜は息を呑んだ。この案件の利益率なら誰より把握している。山﨑蓮は案件を守るために、ほとんど利益をごっそり削ったのだ。あの目が今にも自分を引き裂きそうなのも、無理はない。

下山柚奈は話を続ける。

「横山社長からは、プロジェクトを継続する条件として、ネガティブ報道への対応に加え、窓口担当の変更も求められています」

「ちょっと待って、3ポイント譲ったってことは――」

マーケティング部長の平野玲央が声を張り上げた。

「全体利益、もう2ポイントしか残らないじゃないか。そんなの、年末のインセンティブ全部に響くだろ!」

それに続くように、あちこちから不満の声が上がる。

「こっちは半年も残業続きだったんだぞ」

「全部、誰かさんのだらしない尻拭いのせいじゃないか」

「ここまで火消しできないってことは、まだ表に出てない事情でもあるんじゃないのか?」

向けられる矛先は、ただひとり。谷口美桜だった。

下山柚奈は、その空気を待っていたかのように口を挟む。

「皆さん、落ち着いてください。この件については横山社長がきちんと説明してくださいました。でも、ネットの人たちは信じてくれない。声明があまりに公式的すぎたのかもしれませんし……あるいは、谷口さんの日頃の振る舞いが――」

そこで言葉を選ぶように、わずかに間を置く。

「もちろん、谷口さんを責めたいわけじゃないんです。たしかに彼女は深夜まで接待に出て、お客様と遅くまで飲むこともありました。でもそれは、仕事に対して熱心だったから。そこを悪意ある人に歪めて受け取られたのかもしれません」

擁護しているようで、その実、谷口美桜の「素行の悪さ」を事実にする言い方だった。

会議室の空気が、さらにねっとりと絡みつく。

谷口美桜は顔を上げた。声は、驚くほど澄んでいる。

「私の接待については、すべて経費精算の記録と行動報告が残っています。日時、場所、同席者まで、全部確認できます」

真っ直ぐ下山柚奈を見据えた。

「疑う方がいるなら、どうぞ照会してください」

「谷口さん、誤解しないで」

下山柚奈は困ったように眉を下げ、それでも言葉を引っ込めなかった。

「私はずっとあなたを信じてるわ。そうでなければ、蓮に頼んで弁護士を手配したりしないもの」

それから、少しかすれた声で続ける。

「でも今回の件は、会社の損失だけじゃなく、業界内での信用にも関わってる。南城プロジェクトは今年の最重要案件なのに、利益はここまで圧縮された。みんな、必死で残業して積み上げてきたのよ。それが、こんなことで台無しになりかけてる……管理者として、私にも大きな責任があるわ」

「下山部長が責任感じる必要なんてありませんよ」

「帰国されたばかりで事情も知らなかったんですから」

「そもそも谷口美桜個人の問題だろ。なんで周りがツケを払うんだ」

「会社の損失、本人に補填させるべきだ!」

「そうだ、弁償させろ!」

ざわめきはみるみる大きくなり、山﨑蓮の表情は沈み込んでいく。

コン、コン――。

彼が机を指先で叩いた途端、会議室は水を打ったように静まり返った。

そして、谷口美桜を見る。眼差しには、苛立ちだけではない何かが混じっていた。

「何か言いたいことはあるか」

「私は、そんなことはしていません」

谷口美桜は静かに答えた。

「横山社長の説明は事実です。世論がここまで長引いている理由については、背後に意図的に煽っている人間がいないか、会社として調べるべきだと思います」

下山柚奈の拳が、テーブルの下でぎゅっと握られる。だが表情は崩さない。

彼女は知っている。山﨑蓮は、何を切り捨てればいちばん損失が少ないかを判断できる男だ。今さら調査を広げれば、自ら泥沼に踏み込むだけだと。

「もういい」

山﨑蓮の声には、露骨な苛立ちが滲んでいた。

「今必要なのは調査じゃない。さっさと結論を出して、この騒ぎを終わらせることだ」

彼は冷ややかな口調で告げる。

「本件により会社へ実質的損害が発生した。よって、管理層の協議の結果――処分を決定する」

「第一に、谷口美桜の本年度の賞与および給与を全額差し止める」

「第二に、谷口美桜を南城プロジェクトチームから外す。24時間以内に関連書類の引き継ぎを完了しろ」

谷口美桜の指先が、わずかに強張った。

「24時間では足りません」

契約書だけで30件以上。補足資料は100件を超え、この半年の会議記録とやり取りもすべて整理が必要だ。1日で終えられる量ではない。

だが、山﨑蓮は一切揺るがなかった。

「それはお前の問題だ」

一言、切って捨てる。

「今からカウントする」

そのまま立ち上がり、室内を見渡した。

「以上。解散」

人が次々と席を立つ。谷口美桜のそばを通るたび、同情めいた目もあった。けれど、それ以上に濃いのは不満と責める色だった。

谷口美桜は目を閉じる。ひとつ息を整え、すぐに踵を返した。

会議室に、未練などひとかけらも残さず。

その背中を見送りながら、山﨑蓮の胸に、妙なざわつきが広がる。

自分でも説明のつかない、じくじくした苛立ち。

その変化に気づいた下山柚奈が、隣でそっと声を落とした。

「蓮……つらいのは分かる。でも、ここで厳しくしなかったら、この先チームをどうまとめるの? みんな、あなたは不公平だって思うようになる。会社の結束にも響くわ」

山﨑蓮は、低く「……ああ」とだけ答えた。

そうだ。下山柚奈の言う通りだ。

自分がしたことは、すべて会社のため。

谷口美桜だって、ずっとこの案件を引っ張ってきたのだから、理解できるはずだ――。

書類の山に埋もれた隅のデスクへ戻ると、谷口美桜は深く息を吸い、パソコンを開いた。

作業開始。

オフィスの灯りは、ひとつ、またひとつと消えていく。やがて最後には、彼女のいる一角だけがぽつんと明るく浮いていた。

下腹部の痛みは、時間が経つほど強くなる。谷口美桜は歯を食いしばって耐えた。額には細かな冷や汗が滲み、じっとりと肌に張りつく。

体が限界に近いことくらい、分かっている。

それでも、明日までに引き継ぎを終えられなければ、待っているのはもっと苛烈な処分だ。

山﨑蓮は、彼女を気遣ったりしない。きっとただ、使えないと思うだけ。

午前2時。

谷口美桜はようやく最後の1ファイルをまとめ終えた。

立ち上がろうとした、その瞬間。

視界がすっと暗転する。

次の瞬間には、身体が前へ傾き、そのまま抗えず床へ倒れ込んだ。

夜更け、山﨑蓮は苛立ちを抱えたまま車を飛ばし、会社へ戻ってきた。

明朝の会議で使う書類を取りに来ただけだ――そう自分に言い聞かせる。谷口美桜が家にいないことに落ち着かないわけじゃない。決して。

だが、オフィスのドアを開け、床に倒れている谷口美桜を目にした瞬間。

心臓がどくんと強く縮んだ。

「谷口美桜!」

彼はすぐさま駆け寄り、意識を失っている彼女を抱き上げる。

そのまま外へ出ようとしたとき、オフィスのドアが再び開いた。

「蓮? まだ会社にいたの?」

下山柚奈が驚いたように目を見開き、彼の腕の中の谷口美桜に気づいた途端、表情を変えた。

「美桜、どうしたの?」

「倒れた。病院へ連れていく」

山﨑蓮はそう言って歩き出しかける。

「待って」

下山柚奈がさっと前に出て、行く手を塞いだ。

「顔色はたしかに悪いけど、呼吸は安定してる。ほんとうに失神した人が、こんなふうに静かでいられる?」

彼女はしゃがみ込み、床に転がっていた薬瓶を拾い上げる。

「鎮痛剤……?」

ラベルに目を落とし、それから谷口美桜、さらに山﨑蓮へと視線を移した。

「蓮……もしかして、この人、あなたが今夜会社に戻るって分かってたんじゃない? それで、わざとここで倒れたふりをして、気を引こうとしたとか」

山﨑蓮の足が、ぴたりと止まる。

下山柚奈は、静かに畳みかけた。

「こういう輸入の鎮痛剤って、飲むと強い眠気が出るものもあるでしょう? たぶん薬を飲んで、ここであなたを待ってたのよ」

そして、ため息まじりに言う。

「だってこの人、前にも拘留中に自分で自分を傷つけたでしょう?」

「あなたに気にかけてほしかっただけなの。……あまり責めないであげて」

前のチャプター
次のチャプター