第8章 真相
山﨑蓮は腕の中の女を見下ろした。
谷口美桜の睫毛がかすかに震える。完全に意識を失っている、という感じではない。
「美桜……仕事から逃げるのに、そこまでしなくても」
下山柚奈の声には、薄っぺらい憐れみが混じっていた。
山﨑蓮の眼差しが、じわじわと冷えていく。
「無事なら、自分で起きろ」
手を放すと、谷口美桜は力なくずるりと床へ滑り落ちた。額がデスクの角にぶつかり、鈍い音が響く。
ようやく目を開け、焦点の合わない視線で目の前の男を見上げる。
山﨑蓮は見下ろしたまま、露骨な嫌悪を浮かべた。
「芝居は終わりか? なら続けろ。お前に残ってる時間は多くない」
谷口美桜は床に手をついて立ち上がろうとしたが、眩暈に襲われ、また崩れ落ちる。
下山柚奈が慌てて駆け寄り、肩を支えた。
「ねえ、やっぱり病院に行こう? 薬は勝手に飲んじゃだめだし、もし本当に何かあったら——」
「こいつに何がある」
山﨑蓮は背を向け、自分のオフィスへ戻りながら言い捨てた。
「ここが嫌なら、明日から総務部に行け」
彼が書類を取って戻ってくる頃には、谷口美桜は必死に体を起こし、デスクへ戻ってパソコンに向かっていた。
額の端には、はっきりとした青あざ。さっきぶつけた跡だ。
山﨑蓮の足が一瞬、止まる。だが結局、何も言わず、大股でオフィスを出ていった。
下山柚奈はその後ろを追いながら、口元だけで笑った。
——照明の届かない場所で。
谷口美桜は堪えきれずに腰を折る。痛みが神経一本一本を刺した。
泣きたかった。でも、唇を引きつらせるように笑ってしまう。笑えば笑うほど、涙は勝手に溢れた。
オフィスの灯りはついているのに、心の中はずっと暗い。
時計を見る。午前3:00。
残り、23日。
そのあと、私は自由になる。
翌朝、谷口美桜が目を覚ましたのは7時だった。
ファイルをすべて整えて送ったのは5時。宛先は下山柚奈。
今日から異動——そう思うと、自然と息が漏れた。総務部。静かで、余計なものがない。
総務部に着くと、部長の上田浅子が気まずそうに彼女を資料室へ案内した。
「谷口さん。山﨑社長の指示で、直近3年分の資料を整理して。……あなたね、社長にもう少し柔らかく言えばいいのに。あと1か月でしょう? 秘書室にいた方が——」
上田浅子も、会社の古株たちも思っている。今回の谷口美桜は、本気で傷ついたのだと。でなければ辞めるなんて言い出さない。
けれど山﨑蓮の苛烈さを知っている。目の前の谷口美桜の、いかにも痛々しい顔つきを見て、上田浅子は小さくため息をついた。
「具合が悪かったら言いなさい。残り二十数日、総務部に置いてもいいから」
「今のほうが、ちょうどいいです」
谷口美桜は笑ってみせる。
「上田部長、ありがとうございます。先に作業に入ります」
資料室は地下二階。年中、陽が当たらない。
積み上がった段ボールからは黴の匂いが立ち上り、扉を開けた瞬間、ほこりがふわりと舞った。
谷口美桜はマスクをつけ、箱を一つずつ開けていく。
期限切れの契約書。破棄された帳票。取るに足りない会議記録。
分類、番号付け、保管——無心で繰り返すうち、指先だけが勝手に慣れていった。
スマホが震える。経理部からの通知。
今月の給与、0円。賞与欄は、痛いほど真っ白だった。
彼女はその表示を、長いこと見つめた。目の奥がじんと熱くなるまで。
昼休み、いちばん奥の箱から黄ばんだホテルの利用伝票が数枚出てきた。
日付は4年前。山﨑樹が帰国していた頃。
そのうち一枚の署名を見て、谷口美桜の手が止まる。——下山柚奈。
部屋番号は2201。あのときメディアに撮られた、あの部屋だ。
心臓が早鐘を打った。やっぱり、あの部屋を取ったのは柚奈のほうだった。
さらに掘り返す。箱のいちばん底から、海外から届いた封書が出てきた。
宛名は「山﨑蓮」。
谷口美桜は、なぜか手が勝手に動き、封を切っていた。中身は短い手紙だった。
蓮へ。
これを読む頃、たぶん俺はもういない。だけど、どうしても真実だけは伝えたい。
三年前のあの夜、柚奈が俺に飲ませた酒は、お前の酒棚から持ち出したものだった。
『蓮に、いい酒を出してもてなせって言われた』そう言ってな。
でも後で気づいた。酒棚の暗証番号を知っているのは、お前と柚奈だけだ。
飲んだあと意識が曖昧になり、目が覚めたときにはメディアに囲まれていた。結局、俺は柚奈と結婚するしかなかった。
数日前になって知った。あの日は、柚奈と横山結人が組んで仕組んだことだったって。
だけど、俺はもう長くない。あいつの本性を暴く力が残っていない。
気をつけろ。あいつが欲しいのは、山﨑夫人の肩書きだけじゃない。
——山﨑樹
――――――――――
便箋が、谷口美桜の手からすべり落ちた。
横山結人。天恒グループの社長。南城プロジェクトで組んでいる、あの横山社長——。
そのとき、スマホが震えた。匿名メール。添付は音声データひとつだけ。
谷口美桜は反射的に再生していた。
横山社長と下山柚奈の声が、嫌なほど鮮明に流れ出す。
「下山さん、やるね。谷口美桜を潰して、こっちは3ポイント丸儲けだ」
「持ちつ持たれつよ。でも横山社長、そっちのメディアはもっと焚きつけて。谷口美桜が業界で二度と顔を上げられないようにしたいの」
「任せて。俺に儲けさせてくれるなら、なんでもする」
「でも山﨑社長、惜しくない? あいつ、谷口美桜に情がないって感じでもないけど」
「情? 社長が持つべき情は私だけ。それ以外で会社の利益を邪魔するものは、必ず切るわ」
ぷつり、と音声が途切れる。
画面が暗くなったスマホを見つめながら、谷口美桜は息の仕方を忘れたように感じた。
丁寧に組まれた罠の中で——自分も山﨑蓮も、ただの駒だった。
……いや。
自分は駒ですらない。
道の端に落ちている小石。邪魔だから蹴り飛ばされ、適当に捨てられる、生贄。
退勤後、谷口美桜は証拠を抱え、あの「家」に戻った。
リビングに座り、ただ静かに待つ。
夜の12時。山﨑蓮が帰宅した。
酒の匂いが強い。足取りもふらつき、誰が見ても酔っている。
谷口美桜が顔を上げると、山﨑蓮の充血した目と正面でぶつかった。
「……ここにいたのか」
ネクタイを乱暴に引き抜き、彼は近づいてくる。
「ずいぶん早い帰りだな。仕事が暇すぎるんじゃないか」
谷口美桜は答えず、ただ彼を見た。
山﨑蓮が苛立ったように一歩詰め、手首を掴む。
「俺は話してる」
谷口美桜は静かな目で返した。
「山﨑社長、何かご指示ですか」
「指示?」
山﨑蓮は冷たく笑う。
「俺が、お前に指示できるとでも? 大したもんだよな。自分で自分を傷つけて、薬飲んで、具合悪いふり。谷口美桜、まだ他に手が残ってるか?」
彼は彼女をソファへ引きずり、体重をかけて押さえつける。酒混じりの息が顔にかかる。
「山﨑夫人の席が欲しいんだろ? なら、妻の務めを果たせ」
乱暴に襟元を引き裂こうとした瞬間——
パシンッ!
谷口美桜の平手が、躊躇なく彼の頬を打った。
怒鳴りかけた山﨑蓮は、彼女の目を見て言葉を失う。傷ついた光が、そこにあった。
「妻の務め?」
谷口美桜の声は震えていた。
「私は、あなたの妻なんですか」
山﨑蓮の動きが止まる。
谷口美桜は怒りを押し殺しながらも、体の震えだけは止められなかった。
「山﨑蓮。欲があるなら、下山柚奈のところへ行けばいいじゃない。あの女を汚したくないから、代わりに私を汚すの?」
山﨑蓮は頬を押さえ、信じられないものを見る目をした。
「……お前、狂ったのか」
「狂ってるわ!」
谷口美桜は立ち上がり、テーブルの上の封書と伝票を掴んで、彼の顔に叩きつけた。
「狂ってたから、何年もあなたを愛した! 狂ってたから、あなたのために必死で働いた! なのに最後に、基本の信頼すらもらえなかった!」
紙が床に散らばる。
山﨑蓮は俯いたまま、視線が定まらない。酔いで頭が回らず、目の前の文字が読めない。
谷口美桜の声が揺れた。
「それ、あなたの兄の遺書よ」
そして、息を吸い直して突き刺す。
「死ぬ前に真実を伝えたかったの。あのとき薬を盛ったのは下山柚奈。共犯は横山社長!」
彼女はスマホを操作し、あの音声を再生した。
横山社長と下山柚奈の会話が、静まり返ったリビングに異様なくらい鮮明に響く。
山﨑蓮の顔色が、じわじわと白くなっていく。視線は終始、谷口美桜の顔に縫い付けられたまま。頭の中で反復するのは、たった一言だった。
——狂ってたから、あなたを愛した。
つまり、もう愛していないのか。
谷口美桜は彼の前に立ち、まっすぐ目を合わせた。
「ちゃんと見て。これが、あなたの愛してる女。これが、真相よ」
