第3章
昨夜の対決は、私の完敗に終わった。貴志は私のパスポートを持って行ってしまった。一睡もせずに夜を明かし、考えられる限りの逃亡手段を巡らせていたけれど、彼が周到に張り巡らせた蜘蛛の巣の前では、どんな考えも色褪せて見えた。
だから、朝の九時に電話が鳴ったときも、私はまったく驚かなかった。
「竹内さんでいらっしゃいますか? 芦田の秘書をしております、松本信介と申します。今朝、芦田法律事務所にて、秘密保持契約に署名をいただきたいと申しております」
一体、貴志は何を企んでいるの?
貴志の法律事務所でエレベーターのドアが開くと、私は混沌の真っ只中に足を踏み入れた。カメラのフラッシュ。記者たち。マイク。
人混みの向こうに、演台の後ろに立つ貴志の姿を見つけた。彼の隣には、今まで見た中で最も美しい女性が立っていた。背が高く、優雅で、艶やかな黒髪。そして、その佇まいからは、旧家の出であることが嫌でも伝わってくるような、気負いのない気品が漂っていた。
川崎清美。令嬢。完璧な、お金持ちのお嬢様。
貴志の視線が私を捉え、その笑みは紛れもなく捕食者のそれだった。
「皆様」私から視線を外すことなく、彼はマイクに向かって言った。「川崎清美さんとの婚約を発表いたします」
このクソ野郎……
「過去に大きな恋愛があったという噂がありますが」と、一人の記者が声を上げた。
貴志の手が清美の腰に回される。「過去は過去です。清美こそが、私の未来です」
背を向けて立ち去ろうとすると、いつの間にか隣に松本信介が現れた。「芦田様が、ゲストとして披露宴にご出席いただきたいと申しております」
「帰ります」
「申し訳ありませんが、それはできかねます。芦田様が、竹内様にも取材対応をお願いしたいと、特にご所望でして」
披露宴は四季ホテルで行われた。貴志は「朝日の間」を丸ごと貸し切り、さながら映画に出で来る貴族の婚約パーティーのように飾り立てていた。
私は隅のテーブルに座り、会場を回る貴志と清美を眺めていた。二人の動きは完璧に振り付けられたダンスのようだったが、貴志の視線は何度も私を探し当てた。清美と交わす笑い声も、掲げる乾杯のグラスも――そのすべてにおいて、彼はまるで実験台の私を観察するように、その反応を窺っていた。
「あなたが竹内さんですね」
シャンパングラスを手に、清美が私のテーブルのそばに現れた。
「川崎さん。おめでとうございます」
「ありがとうございます」彼女は私の向かいに腰を下ろした。「貴志から、あなたのことはたくさん伺っていますわ。彼の過去にとって、一番大切な人だったって」
「あなたを特別に思っていたとも言っていましたわ」清美は温かい口調で続けた。「あなたがここに来てくれて、本当に嬉しいです。まるで、家族がいてくれるみたいで」
彼女を憎みたかった。でも、心から親切にしようとしてくれるこの優雅な女性を前にして、私が感じたのは打ちのめされるような敗北感だけだった。
「貴志は、大切に思うものすべてに情熱的なのです」彼女は愛おしそうに彼に視線を送りながら言った。「時々、彼の愛情は深すぎて、本人のためにならないんじゃないかと思うことがあるくらいですね」
「皆様!」貴志の声が響き渡った。「どうぞ、こちらにご注目ください」
会場が静まり返る。貴志は正面に立ち、輝くような笑顔を浮かべた清美がその隣に寄り添った。
「半年前、私は人生の光と出会いました」貴志は清美の腰に腕を回しながら言った。「今日、皆様の前で、私のすべてを変えてくれた女性を祝福したいと思います」
彼は清美に向き直り、その声は静まり返った部屋中に響いた。「清美、君は私の未来であり、私の幸せであり、私のすべてだ」
温かい拍手が沸き起こる。貴志は身を屈め、清美に優しくキスをした。カメラのフラッシュが、まるで花火のように一斉に焚かれた。
そして、その間ずっと、貴志の目は私に向けられていた。
息ができなかった。シャンパンが酸のように感じられた。
震える脚で立ち上がったが、祝福の声を切り裂くように貴志の声が響いた。
「玲奈」
すべての視線が一斉にこちらを向く。貴志は、祝福されたばかりの婚約者を置き去りにして、まっすぐに私の方へ歩いてきた。
「どんな気分だ?」彼は静かに尋ねた。
「何?」
「俺の婚約を祝うのを見ていて。どんな気分なんだ?」
部屋は水を打ったように静まり返った。
「貴志」私は囁いた。「何をしているの?」
「質問に答えてくれ」今や彼の声は部屋中に響き渡っていた。「辛いか、玲奈? 俺があの女と一緒にいるのを見るのは」
「やめて」
「胸が張り裂けそうか? 叫び出したいか?」
「貴志!」清美の声は鋭かった。「一体どういうことなの?」
だが、貴志は婚約者の方を見ていなかった。恐ろしいほどの激しさで、私だけをじっと見つめていた。
「答えろ。俺が他の誰かを愛するのを見ても、辛くないと言ってみろ」
「あなた、正気じゃないわ」
「そうかもな。だが、もう芝居は終わりだ」貴志は会場に向き直った。「皆様、お詫びしなければならないことがあります。この婚約は、嘘でした」
会場にどよめきが広がる。清美の顔から血の気が引いた。
「貴志」彼女は囁いた。「何を、言っているの……?」
「すまない、清美。君には、君だけを完璧に愛せる男がふさわしい」彼は優しく彼女の手を取った。「俺には、それができない。俺の心は、他の誰かのものだからだ」
彼は再び私に向き直った。その目は、紛れもなく野獣のものだった。
「ずっと昔から、他の誰かのものだったんだ」
会場は爆発したような騒ぎになった。叫び声を上げる記者たち。息を呑む社交界の婦人たち。そして、凍りついたように立ち尽くす清美。
「六年前、君は俺を捨てた」貴志は私に歩み寄りながら言った。「行かなければならない、と」
「貴志、やめて――」
「俺はこの六年間、忘れようと必死だった。だが今日、君を見ていて、俺があの女にキスをした時の君のその苦痛に満ちた目を見て――ようやく分かった」
彼はもう、触れられるほどの距離にいた。
「君はまだ、俺を愛している。だから去ったんだ。俺を愛していなかったからじゃない。愛していたからだ。今も、愛しているからだ」
言葉が出なかった。彼の言う通りだったから。
清美と一緒にいる彼を見ているのは、拷問だった。一つ一つの微笑みも、触れ合いも、まるで誰かに心臓をえぐり取られるような感覚だった。
「言え」貴志は要求した。「俺を愛している、と」
会場中の視線が、私たちに注がれていた。
「私――」私は言いかけて、やめた。
それを認めれば、すべてが変わってしまう。そして、貴志が知らないことがある。彼を破滅させてしまうような、事実が。
「できない」私は囁いた。
貴志の表情が硬くなる。「できないのか、それとも、しないのか?」
彼は最後にもう一度、会場に向き直った。
「皆様、婚約は正式に破棄いたします」
