第1章
松原南は呆然と食卓のそばに座り込み、江村成宏が投げつけてきた離婚届を見つめたまま、全身ががたがたと震えるのを止められなかった。
一時間前まで――彼女は胸を弾ませ、結婚三周年のキャンドルディナーを用意していた。
それが、たった一時間後。
成宏は女を連れて家に上がり込み、離婚届を頭からぶちまけるように叩きつけてきた。
「松原南、サインしろ。明子の席を空けろ!」
席を、空けろ。
つまりこの四年間の結婚は、彼女が勝手に信じていただけの夢だった。最初から最後まで、笑い話。
松原南は充血した目で成宏を見上げ、唇を震わせる。
「……彼女のために、私と離婚するの? 江村成宏、忘れたの? あなたが何もなかった頃、誰がそばで支えたと思ってるの」
成宏は聞く耳を持たない。冷淡な視線で見下ろし、その目には嘲りだけが浮かんでいた。
「今さら昔話? 松原南、鏡を見ろよ。右手は使い物にならない。ペンすらまともに持てないくせに、俺の何が支えられる? 明グループの今の立場には、明子みたいな世界で名の通ったデザイナーが必要なんだ。おまえみたいな役立たずじゃない」
役立たず。
その言葉が胸を貫き、息が詰まるほど痛かった。
四年前の事故。彼にデザイン案を届けようとして、右手を粉砕骨折した。今も完治していない。
かつて街を沸かせた天才デザイナーQは、そこで姿を消した。
なのに今、彼は彼女を「役立たず」呼ばわりする。
松原南は、ふっと笑った。笑っているのに涙が頬をつたう。
なんて残酷な男。
隣では白原明子が成宏の腕に絡みつき、華やかに微笑んでいた。松原南を見る目だけが、どこまでも哀れみを帯びる。
「南さん、成宏も会社のためなんです。ご存じでしょう? 明グループはいま上場の大事な時期で……その手では……確かに、彼のそばにいるのは難しいと思います」
松原南は二人を睨み据えた。怒りが、ありありと滲む。
「ここは私の家よ。出て行って」
「すぐにおまえの家じゃなくなる」
成宏が容赦なく言い放つ。
「この家は婚姻中の財産だが、頭金を出したのは俺だ。ローンも俺が払ってる。夫婦だった情けで精神的損害の慰謝料は請求しない。でも家は置いていけ」
まるで滑稽なものを見るように、彼は彼女を見つめた。
「……私に、何も持たずに出て行けってこと?」
松原南は信じられない思いで男の顔を見た。顔立ちは、確かに愛したままなのに――急に、何も見えなくなった気がした。
大学の頃、彼女は必死に彼を追いかけた。松原家がまだ崩れていなかった時期だ。両親の反対を押し切って嫁ぎ、地下の安アパートで暮らし、カップ麺で腹を満たし、自分のデザインで彼を神輿に担ぎ上げた。
それなのに。
成功した途端、彼は彼女を追い払う。
「じゃあ他に何がある?」
成宏は一歩詰め、松原南の顎を乱暴につかんだ。骨が軋むほどの力で。
「松原家の尻拭い、どうなってる? 脱税だの何だの、街中に知れ渡ってるじゃないか」
一拍置き、吐き捨てるように続ける。
「そんな汚い家の女に、俺の財産を分ける資格があるか? それに――クルミをおまえみたいな人間に育てさせるなんて、俺が安心できるわけないだろ」
娘の名を出された瞬間、松原南の身体がびくりと跳ねた。狂ったように成宏を突き飛ばそうとする。
「クルミを欲しがる? ふざけないで! クルミは私が十月十日お腹で育てて産んだのよ! あなたは『重荷だ』って嫌って、一度だって抱いたこともないじゃない! 何をどうして奪う権利があるの!」
「金があるからだ。最高の教育を受けさせられるのは俺だ。おまえは自分一人すら養えないだろ」
成宏は彼女を乱暴に突き放した。
松原南は床に尻もちをつき、右手に鋭い痛みが走る。思わず手首を押さえ、顔色が真っ青になった。
本当は、両親が反対しただけじゃない。彼女自身も迷っていた。
口にできない事情があったからだ。成宏が乏精子症だと告げれば、結婚を許すはずがない。
だから彼女は、結婚の時点で体外受精を終えていた。
それでも彼女は、そのことを理由に離婚を持ち出したりしなかった。
なのに、先に離婚を言い出すのは彼。
あまりにも皮肉だった。
「サインしろ」
成宏は高みから見下ろし、その目に温度は一欠片もない。
「俺に手を出させるな。そうなったら、おまえのほうが惨めになる」
松原南は顔を上げ、成宏を見た。心の中が、じわじわと冷えていく。
七年も愛した男が、これか。
青春も才能も、すべて差し出した末の結末が、これか。
彼女は、彼を何一つ分かっていなかったのかもしれない。
心が死ぬのは、一瞬だった。
「……いいわ。サインする」
松原南は立ち上がり、震える左手でペンを取った。
彼が情け容赦ないなら、こちらも望み通りにしてやる。
「江村成宏。私は七年もあなたを愛した。……その七年が笑い話だったってことにしてあげる。今日からは、他人よ。交わることは二度とない」
涙をこらえ、むしろ誰より誇らしげに笑ってみせる。傷んだ手は思うように動かず、文字は歪んだ。それでも契約書に名前を書き切った。
そのとき――テーブルの上のスマホが、ぶるぶると狂ったように震え出す。
画面に表示されたのは、幼稚園の先生の名前だった。
嫌な予感が、背筋を撫でた。
松原南は通話に出る。手が震えて、スマホを落としそうになる。
「……もしもし」
『松原さん、大変です! クルミちゃんが急に倒れて、鼻血がすごくて止まらないんです。救急車でもう市立病院に――早く来てください!』
耳元で雷が落ちたみたいだった。
松原南は力が抜け、スマホが床に落ちて――がん、と鈍い音がした。
「クルミ……」
呟くと同時に、彼女は踵を返して飛び出そうとする。
だが成宏が手首をつかんだ。
「サインしたばかりでどこへ行く。話をはっきりさせろ。いつ出ていくんだ」
「離して!」
松原南は真っ赤な目で振り返り、喉が裂けるほど叫んだ。
「クルミが病院に運ばれたの! 江村成宏――もし娘に何かあったら、あんたたち二人を絶対に許さない。地獄に道連れにしてやる!」
