第4章
「500万」
その額を耳にした瞬間、松原南はその場で凍りついた。
次の瞬間、ふいに笑いがこみ上げる。
500万。母が遺した形見を買う金額。松原南という人間に残された、最後のわずかな矜持を買い取る金額。
なんという皮肉だろう。元夫は彼女を泥の中へ踏みつけようとした。なのに、彼女がもっとも惨めな姿をさらしているこのとき、逃げ道を与えたのは、見ず知らずのこの男だった。
目を赤くした松原南は、藤原傑を見上げた。体の震えが止まらない。
「藤原様は……私に施しをなさるおつもりですか」
藤原傑は眉をわずかにひそめ、その反応が気に入らないとでもいうように言った。
「施しだと思うなら、それでいい」
「受け取りません」
松原南はきつく歯を食いしばった。涙が今にもこぼれそうなのに、それでも意地でも落とすまいと耐えている。
「このサファイアの相場は200万です。藤原様は払いすぎです」
「余分の300万は、おまえへの褒美だ」
藤原傑の声は冷え切っていた。彼女をまともに見ようともしない。
「娘の治療に使え」
褒美。
その言葉が、胸の奥に鈍く突き刺さる。ずきりと痛んだ。
たしかに自分は落ちぶれた。壊れたも同然だ。だが、情けを恵んでもらわなければ生きていけないほど、自分を安くした覚えはない。
「必要ありません」
松原南は深く息を吸い込み、胸を締めつける苦さを押し殺した。震える左手でスマホを取り出し、銀行口座を表示する。
「200万で結構です。それ以上は、1円たりとも受け取りません」
藤原傑は少し意外そうに彼女を見た。
目の前の女は、ひどく打ちのめされていて、風が吹けば今にも倒れそうだった。だが、その瞳だけは異様なほど強い光を宿している。死んでも折れまいとする、剥き出しの気迫。
少し、面白い。
藤原傑はそれ以上は押さず、秘書に送金するよう目配せした。
「200万。これで売買成立だ」
入金通知の音が鳴る。松原南はスマホをぎゅっと握りしめた。
それから男に向かって深々と頭を下げる。
「……ありがとうございました」
最後にカウンターの上のサファイアをじっと見つめる。母が遺してくれた、最後の拠り所。それも、もう失った。
「藤原様」
立ち去る前、松原南はふと足を止めた。藤原傑に背を向けたまま、かすれた声で言う。
「その宝石、どうか取っておいてください。いつか必ず、お金を持って……自分の手で取り戻しに来ます」
そう言い残し、彼女は一度も振り返らずに去っていった。
藤原傑はその場に立ったまま、底の見えない目でその背を見送る。
取り戻す、だと。
今のあの有様で――。
「藤原様、あの松原さんですが……」
秘書が脇で言いよどむ。
「調べろ」
藤原傑は視線を引き戻し、目の奥に正体の知れない苛立ちをにじませた。
「松原家にこの数年、何があったのか。全部だ」
……
松原南は金を手に、火がついたように病院へ駆け戻った。
会計窓口の前では、手が震えてカードをまともに持てない。支払い完了の表示をこの目で確認して、ようやく全身の力が抜けた。糸が切れた人形みたいに、壁に沿ってずるずると崩れ落ちる。
「クルミ……」
呟いた次の瞬間、彼女は転がるように救急処置室へ駆けていった。
灯りが消える。
医師がベッドを押して出てきた。クルミの小さな体は白いシーツに沈み込み、鼻には管が通され、顔色は透けるほど白い。
「先生! 娘は、娘はどうなんですか!」
松原南はすがりつくように駆け寄った。涙が一気にあふれ出す。
「ひとまず容体は安定しました。これからICUで経過をみます」
医師はマスクを外し、重い口調で続けた。
「松原さん、覚悟はしておいてください。適合する腎提供者を一日でも早く見つけて、移植しなければなりません。でなければ、お子さんの臓器機能は急速に低下していきます」
一日でも早く。
松原南はICUのガラス窓に張りつき、中で眠る娘の姿をむさぼるように見つめた。
全部、自分のせいだ。
人を見る目がなかった。狼を家に引き入れた。そのせいで松原家は破綻し、クルミまで巻き込んでしまった。
江村成宏。白原明子。
松原南は唇を噛みしめる。血がにじみそうなほど強く。
あなたたちが私から奪ったもの。クルミから奪ったもの。
その全部を、私は必ず取り立てる。
たとえ地獄に落ちようと、あなただけは道連れにしてみせる。
病院で一晩中付き添い、面会時間が終わって看護師に促されるまで、松原南はその場を離れなかった。ようやく病院を出たころには、魂だけが抜け落ちたような足取りになっていた。
外では、まだ雨が降っている。
街角に立ち、行き交う車の流れをぼんやり見つめる。そのときになって初めて、自分にはもう行く場所がないのだと思い知らされた。
家は江村成宏に取り上げられた。
口座は凍結された。
なけなしの蓄えも、全部病院に消えた。
広いE市のどこにも、自分の身を寄せる場所がない。
松原南は雨の中で長いこと立ち尽くした。そしてやがて、震える手である番号を押す。
北野紫苑の電話番号だった。
あの頃、自分は意地になって江村成宏と結婚すると言い張った。北野紫苑は必死に反対し、二人は激しくぶつかった。そのまま縁は切れた。
四年。
まるまる四年だ。
コール音が長く続く。鳴るたびに、松原南の心は高く吊り上がっていく。
誰も出ない。このまま切ろうか――そう思ったとき、ようやく通話がつながった。
「もしもし?」
懐かしいのに、どこか遠くなってしまった声。寝起きらしい、少しかすれた響き。
松原南は口を開いた。けれど声になるより先に、涙がぽろりとこぼれた。
「紫苑……」
電話の向こうが、二秒ほど静まる。
次の瞬間、北野紫苑の声が弾けた。
「南? 南なの!? どうしたの? 今どこ? なんで泣いてるの!?」
矢継ぎ早の問いかけ。そのひとつひとつに、隠しようのない焦りがにじんでいる。
松原南は口元を押さえ、全身を震わせながら泣いた。
「紫苑……私、もう行くところがないの……クルミを生かしたいのに、どうしたらいいかわからない……苦しくて、もう……ほんとに、苦しくて……」
「今どこにいるの! 位置情報送って! そこから動かないで、あたしがすぐ迎えに行く! あんたを泣かせたやつがいるなら、ぶっ潰してやるから!」
30分後。
真っ赤なスポーツカーが路肩に急停止した。北野紫苑は傘を差すのも忘れたまま車を飛び降り、びしょ濡れの松原南を力いっぱい抱きしめる。
「このバカ! 大バカ!」
怒鳴りながら、北野紫苑も泣いていた。
「この何年、どこで何してたのよ! つらかったなら、なんで戻ってこなかったの!? あのとき絶縁なんて言ったからって、本当に連絡ひとつ寄越さないなんて……松原南、あんたの心はどれだけ冷たいのよ!」
親友の胸に倒れ込んだ瞬間、この数年に積もりに積もった悔しさも、苦しみも、悲しみも、ようやく出口を見つけた。
松原南は声を上げて泣いた。
胸が裂けるほど、息が切れるほど。
北野紫苑は彼女を車に押し込み、そのまま飛ばして自分のマンションへ連れ帰った。
シャワーを浴び、清潔な服に着替えて出てきた松原南を見た瞬間、北野紫苑の目が手首の傷痕に止まる。
ぼろりと涙が落ちた。
「……あのクソ野郎にやられたの」
北野紫苑は松原南の手を包み込むように持ちながらも、壊れ物に触れるみたいに恐る恐るしている。
「その手……その手は絵を描く手だったのに……あんたはQなのに……江村成宏、あの畜生……よくもこんなこと……!」
松原南はそっと手を引いた。表情はむしろ不自然なほど静かだった。
「もう終わったことよ」
「終わってない!」
北野紫苑は怒りで全身を震わせ、抱き枕をひったくると床へ叩きつけた。
「江村成宏、あの成り上がり男……最初はあんたに寄生してただけじゃない! あんたがいなきゃ今の地位なんて絶対になかったくせに、のし上がった途端に妻子を捨てて、愛人と組んであんたを一文なしで追い出した? しかも実の娘が死にかけてるのに知らん顔? 人間じゃないでしょ、そんなの!」
「こんなクズ、八つ裂きにされて当然よ!」
「ダメ、こんなの絶対に許せない!」
北野紫苑は勢いよく立ち上がった。
「今すぐ人を回して、あいつをぶっ潰してやる!」
