第5章
「紫苑!」
松原南を引き止めた北野紫苑は、目を真っ赤にして首を振った。
「あなたの手を汚すことない。あいつには、あたしがきっちり報いを受けさせる。絶対に」
今、松原南にとって何より先に考えるべきなのは、クルミのことだった。
「今は……クルミが無事でいてくれれば、それだけでいいの」
松原南は声を詰まらせながら言った。
「紫苑、お願いがあるの。部屋を探すの、手伝ってくれないかな。安いところでいいの。クルミをあそこから引き取って、自分で面倒を見たい。病院なんて場所に置いておくのは……」
「外になんか住む必要ないでしょ! ここに住みなよ!」
北野紫苑がぴしゃりと言葉を遮る。
「うち、広いんだから。空けといたってもったいないし。あんたもクルミも、ここで落ち着いて暮らせばいい。文句言いに来るやつがいたら、あたしが相手してやるから」
親友の義憤に燃える顔を見た瞬間、松原南の胸にじんわりと熱いものが広がった。
――まだ、この世界には自分を気にかけてくれる人がいる。
「……ありがとう」
「何がありがとうよ! これ以上よそよそしいこと言ったら、ほんと叩くよ!」
北野紫苑は睨むように言って、それでも次の瞬間には目元を赤くした。
「南、安心して。クルミの腎臓の提供者は、あたしがツテを使って探してみる。お金のことも心配しなくていい。そこはあたしがなんとかする」
松原南は北野紫苑にパソコンを借り、狂ったように履歴書を送り続けた。
かつての彼女は、高嶺の花のQだった。
数々のブランドが奪い合うほどの天才デザイナー。
何千万という契約書を手に、たった一枚のデザイン画を求めて頭を下げる者も少なくなかった。
それなのに今の彼女は、月給20万のデザインアシスタントの求人にまで片っ端から応募している。
稼げるなら何だっていい。
雑用でも、掃除でも、喜んでやる。
クルミのためなら、プライドなんて捨てたって構わない。
この程度の落差がなんだというのか。
気がつけば、時刻は深夜3時を回っていた。
松原南はそのまま机に突っ伏し、重たい眠りに落ちた。
夢見は最悪だった。
血の気のないクルミの小さな顔。
江村成宏の冷えきった眼差し。
白原明子の勝ち誇った笑み。
はっと目を覚ますと、もう外はすっかり明るくなっていた。
松原南は簡単に身支度を整えると、朝食も取らずに病院へ駆け出した。
ナースステーションに着くなり、クルミはもう目を覚まし、容体も安定したため一般病棟へ移ったと告げられる。
目が覚めた――!
その一言だけで、何日も胸を覆っていた暗雲が少し晴れた気がした。
松原南は足を速め、ほとんど走るように病室へ向かう。
だが、扉を開ける前に、中から白原明子の甘ったるい声が聞こえてきた。
「クルミ、いい子だから、お口開けて。おばさんがわざわざ買ってきてあげたのよ……」
その瞬間、松原南の心臓がどくんと跳ねた。
胸の奥から、強烈な不安がせり上がる。
勢いよく病室の扉を押し開ける。
すると、白原明子がベッド脇に腰かけ、ひと口大に切ったケーキをクルミの口元へ運ぼうとしていた。
黄色い果肉がのった、甘い香りのするケーキ。
マンゴーだ。
クルミはマンゴーに重いアレルギーがある。
ひどい時はショック症状まで起こしかねない。
江村成宏のそばにあれだけいた白原明子が、それを知らないはずがない。
わざとだ。
クルミを殺す気なんだ――!
「やめて――!!」
切り裂くような叫び声が、病室に響いた。
あまりに切迫した声だったせいで、ベッドの上のクルミまでびくりと身を震わせる。
白原明子の手が宙で止まる。
振り返ったその目の奥に、どす黒い悪意が一瞬よぎったが、すぐに消えた。
次の瞬間には、松原南が狂ったように駆け寄り、白原明子の手を思いきりはたき落としていた。
ぱしんっ――!
ケーキは宙を飛び、床に叩きつけられる。
クリームがべしゃっと跳ね、あたり一面に飛び散った。
「何するの!」
松原南は震えるクルミを抱きしめると、振り向いて白原明子を睨み据えた。
その瞳には、煮えたぎるような憎悪が渦巻いている。
「うちの娘を殺す気なの!? クルミがマンゴーにアレルギーあるって知ってるくせに……っ、あんた、死なせるつもりだったんでしょ!」
この女――!
夫を奪い、家庭を壊し、それでもなお足りず、今度は娘の命まで狙うつもりなのか。
どうしてここまで腐りきった人間がいるのだろう。
白原明子は立ち上がり、手についたクリームを軽く払った。
さっきまでの優しげな顔など、もうどこにもない。
松原南を見つめ、鼻で笑う。
「南さん、ずいぶんひどい言い方ね。せっかくクルミのお見舞いに来て、食べるものまで持ってきてあげたのに。それがどうして、人殺しになるのかしら」
「とぼけないで!」
松原南は怒りで全身を震わせ、床に落ちたケーキを指さした。
「江村成宏が知ってるなら、あんたが知らないはずない! 最初からわざとだったんでしょ!」
「だったら、何?」
白原明子はふいに声を潜めた。
そして松原南のそばへにじり寄ると、二人にしか聞こえない声で囁く。
「松原南。あなたの娘って、ただのお荷物じゃない。死んだほうがせいせいするでしょ。成宏君の足も引っ張らずに済むし」
死んだほうがせいせいする。
それが、大人の口から五歳の子供に向けて吐かれる言葉なのか。
ぶつん、と。
松原南の中で、最後の一本が切れた。
彼女は立ち上がり、クルミのベッド脇のカーテンをさっと引いて、娘の視界を遮る。
その次の瞬間、怒りが理性を呑み込んだ。
左手を振りかぶり、あの偽善に塗れた顔めがけて容赦なく打ち下ろす。
「この、性根の腐った女ッ!」
だが――
思い描いていた平手打ちの音は、鳴らなかった。
頬に届く寸前で、その手首ががっちりと掴まれたのだ。
松原南は愕然として顔を上げる。
真正面からぶつかったのは、白原明子の、嘲りに満ちた目だった。
「私を叩くつもり?」
白原明子は、実にたやすく松原南の手首を握ったまま、ほんの少し力を込める。
それだけで、松原南の顔色はさっと白くなった。
「ちゃんと現実を見たら? 今のあなた、ただの役立たずの身体じゃない」
白原明子は残酷な笑みを深くする。
「右手はもう使い物にならない。左手だって力がない。そんな身体で、何をどうやって私に勝つつもり? ねえ?」
役立たず。
その言葉が、またしても松原南の胸を深く抉った。
そうだ。
自分はもう、壊れてしまったのだ。
かつて、唯一無二の宝石を描き出してきたこの手は。
今では、たった一発の平手打ちすらまともにできない。
これが、自分への報いだとでもいうのか。
そのときだった。
廊下の向こうから、聞き覚えのある足音が近づいてくる。
白原明子の目が、すっと光る。
次の瞬間。
顔に浮かんでいた悪意は跡形もなく消え去り、代わりに怯えと悲しみに満ちた表情が貼りついた。
「南さん、やめて……私、ただクルミに何か食べさせてあげたかっただけなのに……あっ!」
悲鳴と同時に、白原明子は松原南の手をぱっと離し、大げさなくらい後ろへ倒れこんだ。
どさっ――!
床に散ったクリームとケーキの屑の上へ、派手に転がる。
頬を押さえ、ぼろぼろと涙をこぼした。
それと同時に、病室の扉が勢いよく開く。
江村成宏が飛び込んできて、目にしたのは――
鬼のような形相でそこに立ち、今まさに手を振り下ろしたかのような姿勢の松原南。
そして、自分の愛する女は、床に無残に倒れ込み、全身を汚し、花が雨に打たれたように泣いていた。
「明子!」
江村成宏は大股で駆け寄り、床の白原明子をそっと抱き起こす。
声音は、吐き気がするほど甘く、痛ましげだった。
「どこかぶつけてないか? 痛くないか?」
「成宏君……」
白原明子はそのまま江村成宏の胸にしなだれかかり、いっそう涙をこぼす。
「私は大丈夫……だから、南さんを責めないで。クルミのことが心配で、つい私を突き飛ばしちゃっただけだから……」
