第6章
押した……?
松原南は、このお粗末な茶番を眺めながら、胃の奥がぐわりとひっくり返るのを感じた。
気持ち悪い。
この二人、本当に気持ち悪い。
江村成宏が勢いよく顔を上げる。視線は氷みたいに冷たく、今にも人を刺し殺しそうだった。
「松原南!」
不機嫌に吐き捨て、こめかみに青筋を浮かべる。
「いい加減にしろよ! 明子が親切で子どもの様子を見に来てくれたっていうのに、おまえは手を出して人を叩いた! どうしてそんなに話が通じなくなったんだ!」
親切? 話が通じない?
松原南は、ふっと笑った。
笑いながら、涙がこぼれ落ちた。
七年も愛した男は、ここまで目が潰れてしまったのか。
床に落ちたマンゴーケーキを指さす。
「江村成宏、よく見なさいよ! それ、マンゴーケーキ! クルミがマンゴーアレルギーだって、あなたが知らないわけないでしょう! あの女……クルミを殺す気だったのよ!」
江村成宏はケーキを一瞥し、わずかに表情を止めた。
だが次の瞬間には眉をひそめ、露骨に苛立った顔になる。
「明子はクルミがアレルギーだなんて知らなかったんだ。悪気じゃない、ただのうっかりだろ。そこまで大げさにする必要あるか?」
うっかり?
大げさ?
その瞬間、松原南の胸の中で、何かが完全に死んだ。
彼の目には、あの女が何をしでかしても『うっかり』で済む。実の娘の命なんて、取るに足らない。
「いたい……」
白原明子が男の胸に身を縮め、手首をかかげる。そこにあるのは、目立たない赤みが少し――それだけだ。
それでも彼女は大層な被害者ぶりで、涙を目に溜め、必死に堪えているふりをする。
「成宏君、南さんを責めないで……私がふらついただけ……手も大丈夫よ、ちょっと捻っただけだから……」
「大丈夫なわけないだろ!」
江村成宏は彼女の手を包み込み、痛ましさが溢れ返る目で見つめた。まるで重傷でも負ったかのように。
「先生! 怪我人がいるのが見えないのか!」
怪我人?
松原南はその場に立ち尽くし、目の前の仲睦まじい光景を見て、笑いが込み上げた。
そして実際に声が漏れる。
しんとした病室に、その笑い声だけがやけに耳障りに響いた。
江村成宏が振り返り、目の底に露骨な嫌悪を溜める。
「松原南、おまえまだ笑えるのか? 明子を突き飛ばしておいて、人の心はないのか!」
「人の心?」
松原南は一歩、また一歩と近づく。真っ赤に充血した目で、江村成宏の顔を射抜いた。
「私に、人の心を説くの?」
震える右手を持ち上げる。歪んだその手首には、灯りに照らされてなお生々しい傷痕が走っていた。
「四年前、あなたにデザイン案を届けようとして事故に遭った。右手は粉砕骨折、骨が肉を突き破って……血が床に広がった。手術室で八時間、命を繋いだ」
声は掠れ、言葉は喉の奥から引きずり出すみたいだった。
「私が出てきたとき、あなたが最初に言った言葉……覚えてる?」
「『デザイン案は無事だったか』って聞いたのよ」
「手は使い物にならなくなった。もう二度と、絵筆もペンも握れない。それでもあなたは眉ひとつ動かさず、私の不注意だって責めた。なのに今は? 白原明子がちょっと転んで、手が赤くなっただけで、その騒ぎ?」
「江村成宏、あなたの心って石でできてるの? それとも、白原明子だけが人間で――私、松原南は痛みも感じない道具だっていうの!」
血を吐くような言葉が、病室の空気を切り裂く。
江村成宏の表情が一瞬だけ固まった。何かに触れたように。
だが、それも一瞬。
次の瞬間には、さらに濃い冷たさが顔を覆う。
「昔の話で同情を引こうとするな」
冷ややかに見下ろし、言い放つ。
「手がダメになったならダメになったままだろ。元に戻るのか? でも明子は違う。世界的なデザイナーだ。手は賞を取るためのものだし、明グループに価値を生む。おまえの使い物にならない手が、明子と比べられると思ってるのか?」
使い物にならない手。
比べられると思ってるのか。
喉の奥に鉄の味が滲み、内臓がぐちゃぐちゃに捻じれるように痛んだ。
答えは、これ。
価値がないから、愛されない。
価値がないから、傷つくのも自業自得。
「……出ていって」
松原南は扉を指さし、全身を震わせた。
「出ていけ! 二人とも出ていけ! ここは私の娘の病室よ。汚い足で踏み込まないで!」
「救いようがないな、おまえは!」
江村成宏は白原明子を庇うように一歩退き、最後の我慢が切れた目をした。
駆けつけた医師へ、怒鳴りつける。
「見てわからないのか! こいつは錯乱してる! 暴力性が強い、今すぐ鎮静剤を打て!」
鎮静剤。
愛しい浮気相手を守るために、前妻を『狂った女』として処理する気だ。
医師と看護師たちは、江村成宏の立場を前に逆らえず、顔をこわばらせたまま一斉に飛びかかった。何本もの手が伸び、松原南の身体を押さえつける。
「放して! 私は狂ってない! なんで私を押さえるの!」
松原南は必死に暴れ、絶望の叫びを上げる。
「江村成宏、地獄に落ちろ! 絶対に報いを受ける!」
「報い? 報いを受けるのはおまえだろ」
江村成宏は見下ろし、冷たさだけの目で言った。蟻でも眺めるように。
「……ママ……」
混乱で騒がしい病室に、か細い声が落ちた。
小さいのに、不思議な力があった。誰もがぴたりと動きを止める。
松原南の身体が強張り、抵抗がぷつりと途切れた。
ゆっくり、機械みたいに病床へ顔を向ける。
カーテンの隙間――いや、もう開いていた。クルミが自分で引いたのだろう。大きな目を見開き、怯えた顔で、すべてを見ていた。
見られてしまった。
全部、見られてしまった。
大好きなママが罪人みたいに押さえつけられるところも、父親と呼ばれる男が凶相でママを追い詰めるところも。
「クルミ……」
松原南の心臓が、その瞬間、粉々に砕けた。
見せたくなかった。こんな光景も、こんな無様な自分も、人間のいちばん醜い部分も――娘にだけは。
「クルミ、見ないで……ママは大丈夫。ほんとに大丈夫だから……」
涙が大粒で頬を伝う。娘の目を塞ぎたくても、両腕は背中へ捩じ上げられ、指先ひとつ動かせない。
クルミは必死に身体を起こそうとし、青白い顔をさらに歪めた。
鬼の形相の江村成宏を見て、それから彼の胸に隠れるようにして、どこか得意げな白原明子へ視線を移す。
「……わるいおばさん……」
病の弱さを帯びた、しゃがれた声。それでも、はっきりと全員の耳に届いた。
「ママが押したんじゃない……」
点滴の針が留まった小さな手を伸ばし、白原明子を指さす。
「このひとが……わざと……転んだの……」
静寂。
息遣いすら聞こえるほどの、真空みたいな沈黙。
白原明子の得意げな顔から血の気が一気に引いた。目が泳ぎ、声が震える。
「クルミ……な、何を言ってるの? 怖くて混乱しちゃったのよ……」
江村成宏の背中も、ぎくりと固まった。
病床の娘を見て、そして腕の中の白原明子を見る。どちらが本当か、ようやく考え始めたような顔で。
松原南は床に膝をついたまま、必死に自分を守ろうとする小さな背中を見つめ、涙で視界が滲んだ。
ほらね。
神様は、見ている。
世界中がどんな言い訳で彼女を踏みにじっても、娘だけは――灰色の世界で、たった一つの光でいてくれる。
クルミ。ママの大事な子。
ママは、一生あなたを守る。
今日、あなたがママを守ってくれたみたいに。
