第8章
松原南は病室のベッド脇で、娘の掛け布団の端をそっと整えた。小さな寝顔の呼吸がすっかり落ち着くのを見届けてから、名残惜しさを押し込めるように身を起こし、部屋を出る。
夜はもう深い。疲れを引きずりながら、彼女は北野紫苑の家へ戻った。
ドアをわずかに開けた瞬間、リビングの眩しい灯りがざっと漏れ、青白い彼女の顔を照らした。
北野紫苑はソファにあぐらをかき、膝の上にノートパソコンを抱えていた。物音に顔を上げた途端、眉間にぐっと皺が寄る。
「……何その顔。江村成宏、あのクソに会ったの?」
朝出ていったときは、あんなに元気そうだったのに。今は見る影もないほど憔悴している。
あの犬畜生どもと無関係だなんて、信じられるわけがない。
松原南は苦い笑みを引きつらせ、少しかすれた声で言った。
「白原明子がいて……クルミにマンゴーケーキを食べさせようとしたの」
一拍置いて、瞳の奥に冷たい光が走る。
「……揉めた。言い合いになったの」
江村成宏は親権が欲しい。少なくとも表向き、クルミに手は出せないはずだ。
けれど、白原明子がいる。
松原南は眉を寄せたまま、険しい表情になった。あの女は、クルミを見逃さない――そんな確信が胸の底に沈んでいく。指先が冷えた。
「やらせるわけないでしょ!」
北野紫苑は「パタン!」とノートパソコンを閉じ、怒りを剥き出しにした。
「そのクズ、マジで一回シメないと」
ソファから飛び降りると、水を注いだコップを松原南の手に押し込む。そしてクルミのおばちゃんとして言い切った。
「仕事探しは安心してやりな。病院のほうは私が見張っておく。ダメなら付き添いの人、雇おう。お金は……貸すって形にする。あとで余裕できたら返して」
紫苑は分かっている。親友がどんな性格か。
「出すよ」と言えば、南はきっと受け取らない。でも「貸す」なら話は別だ。
案の定、松原南は少しだけ迷ってから、静かに頷いた。
「昨日、応募して……仕事決まったら返す」
そのときだった。紫苑のノートパソコンが「ピン」と鳴る。
「メール!」
紫苑の目がぱっと輝く。
「ほら、見て! 面接の連絡かもしれない!」
松原南は身を寄せ、心臓が喉の奥にせり上がる。
「南! 藤原グループだよ! 書類通った!」
紫苑は声を上げた。
「やば……藤原グループって待遇トップクラスじゃん。入れたら、もう一気に抜けられるよ!」
松原南はメールを何度も読み返し、ようやく張り詰めていた神経がほどけていく。
右手は以前、粉砕骨折した。画材から遠ざかって久しい。今回出したのも、過去に表へ出さなかった原稿を手直ししたものだ。それが藤原グループの目に留まるなんて――望外だった。
紫苑は彼女の胸の内など知る由もない。画面を指で追いながら言う。
「面接、今日の15時って書いてある。今もう13時半だよ。準備してすぐ行かなきゃじゃない?」
その一言で松原南ははっと我に返り、慌てて身支度を整えた。
貯金は病院という底なし沼に吸い込まれ、今やタクシー代すら心もとない。バスに揺られるしかない。
それでも早めに家を出たのが幸いした。藤原グループの所在地もそう遠くはなく、遅刻は免れた。
藤原グループのビルは空へ突き刺さるようにそびえ立っている。松原南はビルの下でごくりと唾をのみ、受付へ向かった。
「すみません、面接に来ました。場所を教えていただけますか?」
受付の女性は洗練された応対で、質素な服装の彼女にも一切の色を見せない。にこやかに道順を示し、どこを通ればいいかまで丁寧に説明してくれた。
面接会場は3階の会議室。
扉を開けると、すでに面接官が二人、席についていた。
「本日、メールをいただいて伺いました。松原南です」
男性の面接官が軽く咳払いをする。
「履歴書を拝見しました。添付のデザイン案は、すべてご自身で?」
松原南は頷き、落ち着いた声音で答える。
「はい。手を以前痛めておりまして、補助の道具を使って仕上げました。ただ、こちらは間違いなく私本人の制作です。隠していることもありません」
かつてのコードネーム――「Q」には触れない。
それは過去の栄光だ。今の自分は、力だけで一からやり直したい。
面接官二人が視線を交わし、互いの目に驚きが浮かぶ。小声で短く相談を始めた。
たった五分。けれど松原南にとっては、一世紀にも感じられる時間だった。
やがて面接官が顔を上げ、好意的な笑みを向ける。
「松原さん、結論が出ました。手にご事情はあるようですが……このデザイン、発想に瑞々しさがあります。おめでとうございます。特例で採用とします。来週月曜、定刻に出社してください」
大きな喜びが、ずしんと降ってきた。
会議室を出た松原南は、足元がふわふわしていた。頭の中は採用の知らせでいっぱいで、今夜クルミに何を作ってやろうか――そんなことまで考えながら、ぼんやりとエレベーターに乗り込む。
扉が閉まり、静かに上へ動き出してから、遅れて違和感が刺さった。
鏡のように磨かれた内壁。隅にある小さな金属プレートに刻まれている文字。
――社長専用。
心臓がひゅっと縮む。
「チン——」
到着音。扉がゆっくり開き、外に背筋の通った男が立っていた。
藤原傑は書類に視線を落としたまま、いつものように乗り込もうとして――顔を上げた瞬間、足が止まる。
エレベーターの中に、見覚えのある女がいた。
今日はオフィス用のスーツスカートで、細い体の線がほどよく引き立っている。整った小さな顔には、戸惑いが浮かんでいた。
――彼女だ。
明らかに、彼女のほうも、ここで会うとは思っていない顔をしている。
藤原傑はわずかに眉を寄せ、冷えた声で言った。
「ここは社長専用のエレベーターだ」
松原南の頭の中が、ぶわっと白くなる。そこでようやく、目の前の男が誰かを思い出した。
ここで会うなんて、本当に想像もしていなかった。
けれど考えれば当然だ。ここは藤原グループの会社なのだから。
彼女は指をきゅっと握りしめ、視線を落として言い訳する。
「すみません、藤原さん。私……面接で来ていて。専用だと知らなくて……すぐ降ります」
空気が一段、冷たく硬くなる。
まるで告げられているみたいだった――藤原傑が、怒っている。
