第9章
松原南は立ち止まることもできず、そのまま外へ出ようと足を踏み出した。
だが、藤原傑はどかなかった。もともと背の高い男だ。入口に立たれただけで、彼女には出る隙間すらない。
次の瞬間、その重たい視線が彼女に落ちる。
女はうつむいたまま、さっきと同じように、ただ黙って受け入れるような顔をしていた。逆らうことも、言い返すこともない。その様子が、なぜだか彼の胸の内に妙な苛立ちを呼び起こす。
藤原傑は身をひるがえしてエレベーターに乗り込み、相変わらず淡々とした声で言った。
「もういい。次から気をつけろ」
エレベーターの扉がゆっくり閉まる。
ただでさえ狭い空間に、男のまとった雪松の香りがじわりと満ちていく。
生まれつき備わっているかのような圧迫感に、松原南は息をするのもためらった。
少しでも存在感を消そうと身を縮め、そのまま隅へ寄る。そして小さな声でつぶやいた。
「ありがとうございます、藤原若様」
藤原若様といえば、冷たく近寄りがたく、社員にも愛想ひとつ見せない上司だと思っていた。
けれど今の様子を見る限り、冷淡なのは表向きだけなのかもしれない。
エレベーターはすぐに下へ降りていく。なのに、その数秒がやけに長く感じられた。
ようやく一階に着くと、松原南は逃げるように飛び出した。
クルミの夕飯を作りに帰らなければならない。足取りは自然とせわしない。
面接が終わったのはちょうど午後5時。クルミが夕食を食べる時間でもある。
藤原傑は目をわずかに動かし、去っていく背中から視線を外すと、地下1階へ向かうボタンを押した。
なぜか、病院で一度だけ目にしたあの少女の顔が、何度も脳裏によみがえる。
それがひどく心を乱した。
男は眉を軽く寄せ、その思考を振り払うようにして、開いたエレベーターの外へ足を踏み出した。
夜の帳が下りるころ――別の場所、病院の主治医室では。
「お婆様、この時間ですとあの病室のお子さんはもうお休みかもしれませんし、できれば時間を改めていただいたほうが……お母さんもそろそろ――」
「外から少し見るだけよ。何も問題ないでしょう」
藤原奥様はひらひらと手を振った。
「あなたは部屋番号だけ教えなさい。余計なことは気にしなくていいわ」
主治医はなおもためらったものの、孫かもしれない子どもへの興味に勝てず、結局は観念して病室番号を口にした。
まったく……。
今日もあの子の母親が来るかどうかも分からないのに。
どうか病室の前で鉢合わせしませんように――。
主治医は小さく首を振ると、その考えを頭の隅へ追いやった。
藤原奥様は看護師の目を避けながら、こそこそと主治医に聞いた病室の前までたどり着いた。
けれど、いざ扉を開けようとして手が止まる。
あの子、起きているのかしら。
ドアの小窓からは、やわらかな灯りが漏れている。少しためらった末、扉を開ける勇気は出ず、そっと中をのぞき込んだ。
病床の上では、玉のように愛らしい小さな女の子がタブレットを抱え、静かにアニメを見ていた。泣きもせず、騒ぎもせず、ただおとなしく座っている。
その一目で、藤原奥様の心はすっかり奪われた。
あの目元。あの鼻筋。あの小さな唇。
たとえ藤原家の子でなかったとしても、この子は本当にかわいい。
若いころ、娘がほしいと思ったことがある。けれど結局その願いはかなわなかった。今さらでも、孫娘というのも悪くない。
「母上、こんなところで何をしているんです」
背後から、ひややかな声が響いた。いつの間にか、藤原傑が廊下の向こうに立っていた。
彼は眉をひそめる。
「父上のお見舞いですか。病室は反対側ですが」
藤原奥様はびくりと肩を揺らし、後ろめたさを押し隠すように視線を引っ込めた。
「何でもないわ。少し歩いていただけ」
藤原傑は軽く眉を寄せたが、深くは追及しなかった。
「父上の病室はあちらです」
そう言ってから、淡々と続ける。
「ちょうど私も向かうところです。一緒に行きましょう」
相手が実の母親でも、その声音はいつもと変わらず冷ややかだった。
藤原奥様は平然と頷きながらも、頭の中ではさっき見た少女の姿を思い返していた。
もしあの子が本当に自分の孫なら、どれほどいいだろう。
あの素直そうな顔立ちを見れば、この言うことを聞かない息子とはまるで違うのが一目で分かる。
やはり一度、ちゃんと調べさせるべきね。
互いに別のことを考えながらも、二人の歩調だけは揃っていた。そのまま藤原様の病室へ向かっていく。
松原南は藤原グループから戻ると、まず北野紫苑の家へ寄った。
クルミの好きな、あっさりした料理をいくつか作り、弁当箱に詰めてから病院へ向かう支度をする。
「今日は一日動きっぱなしだったんだから、クルミへのご飯は私が届けようか?」
北野紫苑は彼女の体調を気にして、眉を寄せた。
「どうしても行くならせめて先に自分が食べなさい。倒れたら元も子もないでしょう」
「ううん、大丈夫」
松原南はもう靴を履き終えていて、口元にはやわらかな笑みが浮かんでいた。
「クルミ、私がいないと寂しがるから。少しでも長く一緒にいたいの」
いったんこうと決めたら、何頭の牛でも引き戻せない――そういう性格なのだ。
今もそうだし、かつて江村成宏との結婚を決めたときもそうだった。
北野紫苑はため息をひとつつき、もう止めるのは無理だとあきらめた。
松原南は弁当を手に、急ぎ足で病院へ向かう。
もうすぐ娘に会える――そう思うだけで、胸を焼くような不安が少しだけ和らぎ、足取りまで軽くなった。
エレベーターの扉が開くと、彼女は焦るように外へ出た。
気持ちが急きすぎていたせいで、角を曲がったところで、不意に温かく硬い壁のようなものへぶつかる。
けれど松原南には、もう反応する余裕がなかった。
「……っ」
鈍い声が喉の奥で漏れる。
頭の中は真っ白になり、視界いっぱいに白い閃光がはじけた。ぐらりと天地がひっくり返る感覚の中、その身体はまっすぐ床へ崩れ落ちていく。
それでも意識を失う最後の瞬間まで、胸に抱えた保温弁当だけはしっかりと守っていた。
藤原傑は眉をひそめる暇すらなかった。思考より先に身体が動く。
長い腕がすっと伸び、今にも倒れそうな細い身体を、寸分違わず抱き留めた。
腕の中の女は羽のように軽い。いつもは澄んだ光を宿しているあの瞳も、今は固く閉ざされている。触れれば壊れてしまいそうなほど、頼りなかった。
彼は眉間に深い皺を寄せると、ためらいなく彼女を横抱きにし、そのまま大股で医師の部屋へ向かった。
この女、命を削って生きているのか。
医師は藤原傑が気を失った女を抱えて入ってきたのを見て、椅子から飛び上がりそうになった。
「ふ、藤原若様?」
「倒れた。診ろ」
声は氷のように冷たい。
医師は一瞬ももたつかず、慌てて駆け寄った。
藤原傑は彼女をそっと診察ベッドに寝かせ、身を引こうとする。だが、その袖口を小さな手がぎゅっとつかんで離さない。
彼は目を落とした。
雪のように白い手首が、必死に彼を引き留めている。
なぜか無理に振りほどく気になれず、そのまま彼女のベッド脇へ腰を下ろした。
しばらくして、医師は安堵したように息をつく。
「藤原若様、この方は大事ありません。低血糖と過労です。ブドウ糖の点滴を一本入れれば落ち着くでしょう」
藤原傑は短く「そうか」とだけ返し、その視線は松原南の青白い寝顔からなかなか離れなかった。
医師が部屋を出たあと、女はかすかに何かをつぶやいた。
藤原傑は身をかがめ、耳を寄せる。
次の瞬間――松原南が白い腕を伸ばし、男の首に回してぐいと引き寄せた。
藤原傑の顔が、そのまま彼女の首筋へ埋まる。
洗いたての衣類のような、清潔でやさしい香りがした。
彼は腕を外そうと手を伸ばす。だがその瞬間、女がふいに顔を傾けた。
やわらかな唇が、彼の頬をかすめる。
鼓動が――乱れた。
