第3章
晴美は驚きのあまり言葉を失い、初音の後ろ姿が庄園の門の向こうへ消えていくのをただ呆然と見送った。
離婚? 必死に藤原家へ嫁ぎ込んだ女が、離婚を望む?
どうせ和也と痴話喧嘩でもしているのだろう。こんな話をわざわざ彼に告げ口したところで、夫婦の戯れの一部にされるだけだ。
晴美は小さく毒づいてから、傍らの使用人を振り返って睨みつけた。
「今の話、聞かなかったことにしなさい。和也が離婚なんてするわけないんだから!」
研究室の近くにある高級マンションに、初音は一室を所有している。
しばらく戻っていなかったため、部屋には薄く埃が積もっていた。軽く掃除を済ませ、ネットで半調理品を注文する。
ほんの数分で腹を満たせる。娘の複雑なアレルゲンも、夫のうるさい味覚も気にしなくていい。生活が一気に軽やかになった。
手元には、和也から渡されたカードがある。毎月、相当な額の生活費が振り込まれるものだ。
初音は残高をすべて別の口座へ移し、銀行に電話してカードを停止した。
これで来月、和也が生活費を振り込もうとしても、口座エラーで自動的に返金される。
移したお金は一気に使い切った。ずっと欲しかったロングドレスを買うために。
医療業界の交流晩餐会。かつて「藤原の奥様」だった彼女には、和也に連れられてこのような場に出る資格などなかった。
だが今は違う。トップ研究室の主席専門家として出席できるだけでなく、受け取ったのは特別なVIP招待状だ。
レッドカーペットを歩いて宴会場へ足を踏み入れると、多くの視線が初音に集まった。
長い髪を背に流し、白く透き通る顔は掌ほどの小ささ。深いネイビーのドレスは決して派手ではないが、彼女の美しい体のラインを完璧に際立たせている。
「弓月さん、今日すごく綺麗です」
部下の女性研究員である花子が小走りで近づいてきた。その表情はどこか不安げだ。
「ご報告しなければならないことがあって……」
「以前、藤原グループがうちの心臓微創ナノロボットの研究に三億投資するって話があったじゃないですか。でもさっき電話が来て、その投資が取り消されたんです……」
初音は少し眉を上げ、一瞬だけ驚いた様子を見せたが、すぐにその事実を受け入れた。
「大丈夫よ」
和也が罰を与えようとしているだけだ。
以前、彼女が仕事に復帰したいと言い出した時、彼はあまり賛成していなかった。それでも無理に引き止めはせず、後になって自ら研究室への投資を提案してきた。ただし、娘の三食を作る時間を確実に確保するという条件付きで。
今、彼女が言うことを聞かないから、彼は腹を立てて屈服させようとしているのだ。
「今日は投資家がたくさん来ているわ。今夜ここで資金を集めればいいの」
初音は花子を慰めるように言った。
「心配しないで。研究室は潰れたりしないから」
花子はほっと息をついた。
「また無理やり家に連れ戻されて、専業主婦になっちゃうのかと思いました……」
初音は医学院で微創医学の権威に師事していたが、その後キャリアを捨てて家庭に入った。その惜しまれる経歴は、業界内でも広く知られている。
「もう二度と戻らないわ」
初音の顔に浮かんだ笑みは、どこか苦みを帯びていた。
「道を間違えたの。信じる相手も間違えた」
ふと、人混みの中に馴染みのある顔を見つけた。彼女はシャンパングラスを手に、挨拶をしようと歩み寄る。
すぐそばまで近づいたその時、横から甲高い声が響いた。
「西園寺さん!」
派手な真紅のドレスに身を包んだ雪菜が、まるで蝶のように飛んできて、初音より一足早く西園寺悟へ手を差し出した。
「まさか帰国されていたなんて」
初音は足を止めるしかなかった。
悟は彼女の大学の先輩であり、実家は多くの製薬工場に投資している。当時、初音がチームを離れて結婚した際、悟は指導教授以上に激怒した。
彼女はグラスを持ったまま、雪菜の話が終わるのを静かに傍らで待つつもりだった。だが思いがけず、悟は一目で彼女に気づき、その表情を複雑に歪ませた。
彼の視線を追って、雪菜も初音の存在に気づく。
その瞳の奥に一瞬だけ驚嘆の色が走ったが、すぐに嫉妬へと変わった。
「藤原の奥様、全然分かりませんでしたよ。そんなに綺麗に着飾って……」
雪菜は唇の端を吊り上げ、いかにも上品ぶった態度で言い放つ。
「そろそろお家に帰って、寧々ちゃんのご飯を作らなきゃいけない時間じゃないですか? あの子、ここ数日まともにご飯が食べられなくて、無責任なママだってずっと文句を言ってましたよ」
「この前も言ったでしょう?」
初音は淡々と返す。
「子どもも夫も、あなたにあげるわ。あの子がご飯を食べたいなら、あなたが作ってあげればいい。本人が言っていたもの。あなたのほうにママになってほしいって」
そう言い残し、彼女は悟へ向かって軽く頷いた。
「西園寺さん。私、研究室でNaMetre方向のロボット研究を再開したんです。最近少し進展がありまして、お話しできないかと思いまして」
悟と最後に会ったのはもう六年前のことだ。あの時は険悪な別れ方をした。
彼が再び協力してくれる気があるのか、それとも他人のふりをされるのか、初音には分からなかった。
だからこそ、彼女は姿勢を低くし、言葉の端々に申し訳なさを滲ませていた。
だが、その態度は雪菜の耳には、ただの卑屈な懇願のように聞こえたらしい。
「ここはあなたが来るような場所じゃないわ」
初音に向かってそう吐き捨てた後、雪菜はふと彼女の背後へ視線を向けた。
「藤原社長、前に招待状をなくしたって仰ってましたけど、もしかして……」
後半の言葉は飲み込み、意味ありげな視線を初音の顔へと落とす。あらぬ想像を掻き立てるような目つきだ。
傍らに暗い影が落ちる。案の定、和也だった。
「初音」
低く重い声。庄園で言い返されたことを、まだ根に持っているのは明らかだった。
「帰るぞ」
彼女がここに何をしに来たのかすら問わない。その物言いからは、まるで彼女が自分の顔に泥を塗ったとでも言いたげな響きがあった。
心はとうの昔に冷え切っている。初音は小さく息を吸い込んだ。
「研究室宛てに来た招待状よ。私は投資を探しに来たの」
「お前に投資は必要ない」
和也は不快そうに眉をひそめる。
「二日も家に帰っていないだろう。寧々にはお前の世話が必要だ」
「寧々は雪菜にママになってほしいって言ったわ」
初音は先ほどの言葉を繰り返した。
「それに、あなたなら栄養士も料理人も雇えるでしょう。私が帰る必要なんてない」
彼女は顔を上げ、初めて一切の恐れを見せずに彼を真っ直ぐ見据えた。
「あなたの投資はいらない。私のことに干渉しないで」
「ふん……」
和也は呆れたように鼻で笑った。
「子どものちょっとした癇癪を、いつまで根に持つ気だ?」
初音は言葉を失った。
何を言っても、彼にはただ意地を張っているようにしか見えないのだ。なにしろ、初音が必死の思いで和也に嫁いだことは誰もが知っている。そんな女が、大人しく彼の言うことを聞き、一生涯都合のいい妻兼家政婦として生きないはずがないと、そう思っているのだ。
その時、不意に悟の声が響いた。
「弓月さん、ここは確かに少し騒がしいですね」
彼は初音に向かって手を差し出した。
「投資の件、上のラウンジへ移動して話しましょうか」
