第5章
「あの子のために、もうすぐ手に入るはずだった研究員のポストも、教授が推薦してくれた留学の話も、世話に支障が出るかもしれない付き合いも仕事も、全部捨てた。――それなのに、結果はどう?」
「私は何を得たの?」
後半は声がわずかに震えていた。長年溜め込んできた悔しさを、すべて吐き出すかのように。
「私が得たのは、自分の誕生日に、娘が皆の前で『別の人のほうがママにふさわしい』って言ったこと! 私が傷つくと分かっていながら、私の誕生日の席で別の女の功労を祝って、あろうことか私に乾杯までさせたことよ!」
「和也。私だって疲れるし、心も冷える。この六年間が本当に価値あるものだったのか、疑いたくもなるわ!」
和也は呆然とした。
初音が一気にこれほど言葉を吐き出すのを聞いたことがない。抑え込んでいた苦痛や悔しさを、これほど直接的にぶつけてくる姿も見たことがなかった。
居心地が悪く、なによりこんな場所で大声で喚き散らすのはみっともないと感じた。
だが、口まで出かかった言葉は、顔を上げて初音の目と合った瞬間に止まった。
その瞳には薄っすらと涙が滲んでいて、彼女のそんな姿を見ると、言おうとした言葉がふいに喉の奥でつかえた。
休憩エリアは静かで、悟は二人が話し始めた時に自ら席を外していた。
和也が小さく息を吐き、宥めようとしたその時――スマホが鳴った。画面を見ると、雪菜からだ。
彼はすぐに出た。
「もしもし、雪菜か?」
電話の向こうからは雪菜の弱々しい声が途切れ途切れに聞こえ、傍らで誰かが尋ねる声も混ざっている。
「和也、どこ……? 私……お腹がすごく痛いの。さっき冷たいもの飲んだからかも……お願い、来て。病院に連れてって……」
和也は眉をひそめた。
「痛みは酷いのか? 動くな、すぐ行く」
電話を切り、初音を見る。その口調は焦りと苛立ちを含んでいた。
「雪菜の具合が悪い。病院へ連れて行く」
「少し頭を冷やせ。寧々が家で待ってるんだ、あの子をがっかりさせるな」
言い捨てると、初音の返事すら待たずに踵を返し、大股で去っていった。その背中はすぐに階段の向こうへ消える。
初音はその場に立ち尽くし、彼が消えた方向を見つめたまま動けなかった。
湧き上がった感情は行き場を失い、まるで鏡に向かって一人で当たり散らしたかのように虚しい。
これが自分の夫だ。別の女が必要とすれば、躊躇いなくそちらへ走る。自分を連れ戻しに来たことなど、とうに忘れて。
こんなことは、この六年間で何度繰り返されたか分からない。
初音は自嘲気味に笑った。
「大丈夫か?」
悟が戻ってくる。
初音はゆっくり息を吐き、無理に笑みを作った。
「平気。見苦しいところを見せちゃったわね」
「笑うならとっくに笑い尽くしてる」
悟は冗談めかして言い、名刺を差し出した。
「投資の件は、また日を改めてゆっくり話そう」
「明日の午前十時でどう?」
初音は探るように尋ねた。
「いいよ。直接うちの会社に来てくれ」
少し間を置いて、悟は言った。
「送ろうか?」
「ううん」
初音は首を振る。
「自分で帰れるから」
初音は藤原家には戻らなかった。和也との離婚を決めた以上、帰るつもりはない――戻ったところで、無料の家政婦として当然のようにこき使われるだけだ。
少し考えた後、一度家に戻って簡単に荷物をまとめ、車で西の高級住宅街へ向かった。そして、親友の酒井梨乃の家のドアをノックした。
梨乃はパジャマ姿で、寝癖のついたボサボサの頭でドアを開けた。初音を見るなり一瞬呆気にとられ、すぐに目を丸くした。
「初音? どうしたの……今何時だと思ってるの? 早く入って!」
初音の手にある小さなキャリーケースに気づくと、梨乃はさらに息を呑んだ。
「ちょ、ちょっと! 何があったの? 和也と喧嘩した? 追い出されたの?」
言いながら初音を部屋へ引っ張り込み、ついでにドアを閉める。
部屋の中にはインスタント食品の匂いと、絵の具の匂いが微かに漂っている。梨乃の実家は投資貿易会社を営んでいるが、彼女自身はフリーのイラストレーターだ。昼夜逆転の生活をしており、今はちょうど彼女の活動時間だった。
「追い出されたんじゃないわ。私が帰りたくなかっただけ」
初音は荷物を置き、ハイヒールを脱いで裸足で柔らかい絨毯の上に立った。
ここまで来て、張り詰めていた神経がようやく緩む。心にのしかかっていた重石も、一緒に下りた気がした。
疲労感と解放感が入り混じった、言葉にしにくい感覚のまま、初音は部屋に入るなりソファへ倒れ込んだ。
梨乃はそんな彼女を見て指を鳴らし、酒棚から赤ワインを二本開け、グラスを持ってきて初音の前に置いた。
「ほらほら、話してよ。一体どうしたの? またあの雪菜のせい?」
初音は苦笑した。
「全部が彼女のせいってわけじゃないわ。一番は……私自身が疲れたから。離婚したいの」
梨乃は初音と和也の事情を以前からよく知っている。初音の肩を抱き寄せた。
「離婚! 絶対離婚よ! そんな男、いつまで置いておく気? 私に言わせれば、遅すぎたくらいよ!」
「あいつが足引っ張らなかったら、今頃あんたは博士号を取って、論文だって山ほど出してたはずなんだから!」
初音は梨乃の肩に寄りかかり、鼻の奥がツンとした。
「で、引き止められた?」
梨乃が尋ねる。
「全然本気にしてないわ。彼のことより、今日は悟先輩に会ったの。私のプロジェクトに投資してくれるかもしれない」
言いながら、初音はグラスを手に取り、大きく一口飲んだ。
赤ワインが喉を通り、胸の奥に痺れるような熱が広がる。ふいに妙な痛快感を覚え、そのままグラスを煽って飲み干した。
「悟? 西園寺悟? あの実家が製薬会社のイケメン先輩?」
梨乃は目を輝かせ、自分もグラスを空けた。
「いいじゃない!」
「あんたは今、クソ男なんて脇に置いて、自分の仕事をしっかりやるべきよ。手伝おうか? ハイテクのことはよく分からないけど、後でパパに言って、投資してもらえるか聞いてみるから!」
「今、住むところないんでしょ? ちょうどいいわ、ここに住みなよ。人の気配があるほうが私も助かるし」
初音の胸が温かくなる。
「梨乃、ありがとう」
「私たちにそんな言葉いらないでしょ」
梨乃は再びグラスにワインを注ぐ。
「ほら、今夜はとことん飲むわよ! 私たちの初音の華麗なる復帰と、仕事への専念を祝って! あのクズ男とビッチを悔しがらせてやりましょ!」
二つのグラスがぶつかり合い、澄んだ音が鳴った。
……
病院の救急外来。
雪菜はベッドに横たわり、顔色はまだ少し青白いが、大事には至らなかったようだ。
医師が注意事項を説明している間、和也はベッドの傍らに立ちながら、どこか上の空だった。
ポケットのスマホは静かなままで、新しい着信もメッセージもない。執事に電話をかけ、初音が戻ったか確認すると、一度帰宅して荷物をまとめ、また出て行ったと告げられた。
娘の顔すら見ずに。
――やりすぎだ。和也は思う。子どもじゃあるまいし、家出なんて真似をするとは。
