第1章 元カレと再会
オーロラ・ロス の視点
「ロス嬢。あんたみたいに綺麗な女なら、男に頼みごとをする方法くらい分かってるだろう?」
豪奢な個室。ジャックは、私の記憶にある温厚な「叔父」の顔をあっさり捨て、発情した獣みたいな目で私の体を舐め回した。隠す気もない淫欲が混じっている。
真夏のはずなのに、背筋がぞくりと冷えた。
利益こそが永遠の相棒だと、頭では分かっていた。けれど父と長年付き合いのある友人――名目上は私の叔父が、こんな言葉を吐くのを聞かされれば、失望せずにはいられない。
しかも……。
彼は、私が連絡を取れる最後の投資家だった。
手元の企画書を見つめるほど、胸の奥がじわじわと絶望に侵食されていく。
私はオーロラ・ロス。ロス・グループの一人娘。両親に宝物みたいに育てられ、支援されて海外でPhDまで取った。
――なのに。七年ぶりに帰国して待っていたのは、倒産寸前のロス・グループと、途方もない負債だった。
両親は警察に連れて行かれ、名義の資産はすべて差し押さえ。借金を埋められなければ、どれほどの刑期になるかも分からない。
一夜にして、私は家も居場所も失った。
事態をどうにかしたくて、この一か月、両親の旧友を片っ端から当たった。助けを求めた。けれど返ってくるのは拒絶か、留守電に回るコールばかり。
ジャックだけが最後の希望だった。
そして――その希望も、いま目の前で砕けた。
「すみません、ジャックさん。私、もう失礼します」
金がないからって、体で取引なんてしない。
こんなクズに縋るくらいなら、別の方法を探したほうがいい。
その瞬間、手の中の企画書が乱暴に引き抜かれた。
「バンッ!」
時間も心血も注いだそれは、ゴミみたいに投げ捨てられ、紙がぱらぱらと散っていく。ジャックはそれを靴で踏みつけた。
「このビッチが。何が清純ぶってんだよ。まだロス家のお嬢様気取りか?」
「俺が出資しなきゃ、お前なんか家畜以下の生活だぞ。俺と一回寝れば投資が手に入る。むしろ安いもんだろ」
「跪いて、口で俺のをしゃぶって、お願いしてみろよ。俺に抱かせろってな!」
偽善の仮面を投げ捨てたジャックが、私を酒卓に押し倒した。グラスががちゃがちゃと転がり、酒が跳ねる。――本気で襲う気だ。
「やめて! 触らないで!」
吐き気が脳を埋め尽くす。私は必死に暴れ、髪を掴んで引きちぎる勢いで後ろへ引いた。
「助けて! 誰か!」
叫べば叫ぶほど、ジャックは興奮を深める。
「このホテルは全部俺のもんだ。誰が助けに来る?」
首筋に顔を埋め、ぬるい舌が肌を這う。気持ち悪い。擦りつけたあと、彼は顔を上げ、口づけしようとした。私は必死で顔を背ける。
腕で押し返すのも限界だった。もう力が入らない。
お願い、誰でもいい、助けて――。
その祈りが届いたのか。
視界の端へ、赤ワインのボトルがころころと転がり込んできた。
私はそれを掴んだ。迷う暇はない。
思いきり、彼の頭に叩きつける。
「ぐぁっ!」
額から血が流れ落ちる。鋭い痛みに力が緩んだ瞬間、私は彼を突き飛ばし、扉へ走った。
分かってる。完全に怒らせた。
追いつかれたら、もう逃げられない。
心臓が暴れる。ドアノブをねじって廊下へ飛び出した。
「このクソ女!」
「必ず痛い目見せてやる!」
背後の怒鳴り声で全身が張り詰め、息をするのも忘れそうになる。
もっと速く。
捕まるな。絶対に。
角を曲がった先、廊下の突き当たりに、背の高い男の後ろ姿が見えた。
銀色の髪。まっすぐ伸びた背。まくった袖から覗く蜜色の前腕は筋肉が盛り上がり、浮いた血管が生々しい色気を放っている。
ベルベットの赤い絨毯を、革靴が静かに踏む。
一九〇近い長身が、圧を生む。
ゆったり歩き、身の回りの騒ぎなど気にも留めない。
なぜか――この背中が、妙に懐かしい。
でも考える余裕はない。
「お願いです、助けて!」
私は必死に声をかけ、背中へ駆け寄った。
銀髪の男が足を止めた、その瞬間。
腕が引きちぎれそうに痛む。
追いついたジャックが、怒りで顔を歪め、私を乱暴に引き倒した。床に転がる。
胸がぎゅっと縮む。私は、唯一の救いに縋るように叫んだ。
「お願い!」
助けて――。
祈る視線の先で、その男がゆっくり振り返った。
廊下の最奥。装飾の蝋燭の灯が背後に揺れて、彼の輪郭に淡い光を纏わせる。
高い身長。彫刻みたいな整った顔立ち。黒いシャツは上のボタンが二つ外れ、覗く筋肉の線が無造作で、ひどく挑発的だった。
角から無数のボディガードが現れ、彼の背後に列を作る。
碧い瞳が細められ、私を見据える。今の自分がどれだけ惨めな姿か、想像できてしまって、体が固まった。
――知っている。
正確に言えば、嫌というほど知っている。
アレックス・フィリップ。
七年前、私が別れを告げた元恋人。
