第3章 彼の強引なキス
オーロラ・ロス の視点
愛人になれと言ったのはアレックスのくせに、私が頷いた瞬間、彼の気配はいっそう冷えた。
「やっぱりな。金と権力しか、お前を動かせない」
「オーロラ。昔の俺は、お前の強欲を見抜けなかった」
言い返したくて唇を開いた。けれど、結局なにも出てこない。
彼は少し待った。返ってきたのは沈黙だけだと悟ると、私の頬から手を離した。
「来い」
「彼女を川の苑へ連れて行け」
廊下の奥にボディガードが現れる。私は黙ったまま、促されるままに歩き出した。
一歩踏み出した背後から、男の低い声が絡みつく。熱を帯びた、抗いがたい囁き。
「ベッドで待て。全部脱いで」
かっと頬が燃えた。隣を歩く護衛たちの表情など、怖くて見られない。私は誤魔化すように歩調を速めた。
川の苑へ向かう車中、私は窓に肘をつき、流れていく景色をぼんやり追った。
七年で道は整備され、広く、滑らかになっている。昔みたいに凸凹だらけじゃない。
――そういえば、以前アレックスが自転車で私を乗せて、この辺で盛大に転んだっけ。
思い出して、ふっと笑ってしまう。けれどすぐに気づく。私たちの関係は、取り返しがつかないほど変わってしまったのだと。
「アレックス……この七年、元気だった?」
運転席の護衛が、バックミラー越しに私を見た。態度は恭しいのに、言葉は妙に重い。
「ええ。手段の苛烈なマフィアの王に、わざわざ喧嘩を売る者はいませんから」
「陛下は手中の事業も多く、A市の大半を握っています。大袈裟に聞こえるでしょうが……地下の世界では、あの方が「皇帝」です」
マフィアの王……?
言葉を失った。身分がただ者ではないと薄々感じていた。でも、ここまでとは。
護衛の表情がさらに引き締まる。
「ロス嬢。命が惜しいなら、決して陛下を怒らせないことです」
まるで地獄の悪魔でも語るような口ぶりだった。記憶の中のアレックスとは、まるで別人。
この七年、彼に何があったのだろう。
ロールスロイスが川の苑の門前で止まる。富裕層の独立邸宅が並ぶ区画は、息が詰まるほど静かだった。
久しぶりのこの場所に、私は周囲を見回す。
庭の薔薇は鮮やかで、夕陽に照らされて金色に滲んでいる。
「ロス嬢。私はここまでです。陛下は、他人が川の苑に入るのを嫌います」
私は頷き、護衛を見送った。門の前まで歩き――そこで固まる。
パスコードを聞いていない。
スマホを取り出してアレックスに電話をかけようとして、はっとする。留学した日にSIMを替えた。今の番号を、彼は知らない。
試しに、彼の誕生日を打ち込む。
――違う。
息を詰めて、もう一度。
「0507」
私の誕生日。
ピンポン、と軽い音がして、門が開いた。
七年前と同じ。変えていないだけ?
それとも……。
家の中は、見知らぬはずなのにどこか懐かしい。家具は替わっているのに、小さな癖だけが残っている。
たとえば玄関の小箱に車のキーを放り込むところ。
ローテーブルにノートPCを置きっぱなしにするところ。
……。
七年もあれば、アレックスのことなんて忘れたと思っていた。
でも違った。記憶は深い場所に潜んでいて、隙があれば平気で顔を出す。
今日は、いろいろありすぎた。
黒い絨毯に座り込み、ソファに背を預ける。疲労が骨まで染みる。
私はこの先、アレックスと一切交わらない人生を選ぶつもりだった。
なのに彼は、なぜ私を愛人にする? なぜ嫌いな相手を傍に置く?
パスコードが変わっていない。
もしかして、まだ私に――。
そんなわけない。
思いついた自分が可笑しくて、乾いた笑いが漏れた。
当時、大勢の前で彼を罵った。卑しい、釣り合わないと侮辱した。
彼が私を憎んでいないはずがない。
むしろ――あの屈辱を忘れず、私で取り返すつもりなんだ。
不意にスマホが鳴って、思考が途切れた。
画面には、助手の名前。
「ボス!」
「N.Sから連絡が来ました! 出資に応じるって……ボスが投資を引っ張ったんですよね? 努力が報われました!」
「この資金が入れば、会社が回ります!」
会社だけじゃない。両親も刑務所に行かずに済む。
受話口の興奮を聞きながら、胸に押し込めていた絶望が、ゆっくり溶けていくのを感じた。喉の奥が熱くなって、泣きそうになる。
通話を切って、ようやく現実に戻った。
――アレックスの動きは、あまりにも早い。
危機はひとまず去った。私は長く息を吐いた。
その時、玄関の方で物音がした。
ドアの向こうで外套を脱ぎながら入ってきたアレックスを見て、思わず目を見開く。
護衛は「陛下は多忙だ」と言っていた。組織も会社も、やることだらけだと。
もっと遅いと思っていたのに。
「そこで突っ立って何してる。合格点の愛人のやり方でも、教えてやろうか?」
ネクタイを緩める声は、相変わらず嘲るようだった。
「……」
私は黙って近づき、外套を受け取ろうとした。
その瞬間、手首を強く掴まれる。
次の瞬間、厚い胸に引き寄せられた。
髪を撫でる手が私の頭を持ち上げ――
熱いキスが落ちる。
壁に押しつけられ、唇を激しく奪われた。
外套は無造作に投げ捨てられ、腰を抱かれて、裸足の足が彼の革靴の上に乗せられる。
むせるほど濃い男の匂いに、体がじわじわ熱を帯びていく。
もう分かっている。
アレックスは、七年前の照れ屋な少年じゃない。
長身、硬質な顔立ち。
マフィアの王としての冷静さと強さが、そのまま支配欲になって私を押し潰す。
絡め取るように口づけ、奪い、逃げ道を塞ぐ。
反抗を許さない所有と欲情を、剥き出しで。
背中を撫でる手が肩から滑り、尻を揉みしだく。
そして、私の腹に押し当てられているのは――彼の硬く昂ったものだった。
私は顔を赤くするしかなかった。
