第3章
茉奈視点
私たちの間に沈黙が横たわる。和人の言葉が、いつまでも晴れない煙のように、部屋の空気に漂っていた。
私にはできなかった。
立ち上がり、彼との間に距離をとる。ソファの背もたれを強く握りしめた。
「それで、気づいたの? 自分の敵の妻に、ほんの一瞬、興味を持っただけだって?」
彼の表情が硬くなる。「君は彼の妻じゃない。法的には、一度も彼の妻だったことはない」
その言葉は、平手打ちのように私を襲った。顔がこわばる。七年間、自分を羽原夫人と名乗ってきた。七年間、ビジネスディナーやチャリティーガラ、美術展覧会の場で、羽原直樹の妻として名乗り続けてきた。それなのに、法的には? 私は何者でもなかったのだ。
和人の声が和らぐ。「それに、君は俺の子を身ごもっている。茉奈、俺には知る権利がある」
私は一歩後ずさる。窓から差し込む夕日が、私たちの間に光の筋を引いた。「この子は、私一人で育てる。あなたが責任を負う必要はないわ」
彼の顎に力がこもる。私が自分のお腹をかばうように両腕を回している、その守りの姿勢に気づいたようだ。
「責任がない?」彼の声に衝撃がにじむ。「茉奈、俺をどんな男だと思ってるんだ?」
「合理的なビジネスマンだと思ってる。これはただの事故だった。この子を利用してあなたを縛りつけるつもりはないわ」
「縛りつける?」彼は息を呑んだ。「君はこれを、罠だとでも思っているのか?」
彼はあっという間に距離を詰めてきた。その黒い瞳が、私をその場に縫い付ける。ソファのひじ掛けをさらに強く握りしめ、指の関節が白くなった。
彼の拳が固く握られ、そして、ゆっくりと開かれる。必死に自制心と戦っているのがわかった。
「聞け、赤井茉奈」彼の声が低くなる。「あの夜の後、三日間かけて、あることをはっきりさせた。俺は君を追いかけたい。羽原直樹への復讐のためでも、ビジネスのためでもなく、君に好意を抱いたからだ」
私は凍りついた。言葉の意味が理解できない。
私が口を開く前に、彼は続けた。「最初の動機が不純だったことは認める。君が屈辱を味わうのを見たかったし、嘲笑ってやりたかった。だが、君が泣いているのを見たとき、君を抱きしめたとき、君が俺にキスしたとき……」彼は言葉を区切った。「茉奈、俺は君を駒として使うことなんてできないと悟ったんだ」
私の声は震えていた。「どうして信じろって言うの? 和人、私は失敗した関係を終えたばかりなのよ。羽原直樹だって私を愛してるって言った、一生大切にするって。それで、結局どうなった?」
「俺はあいつとは違う」
私は笑った。ひどく苦い響きだった。「男はみんなそう言うわ」
彼の顔に苛立ちがよぎる。だがその下には、何か頑固なものが――決して諦めない、というような意志が見えた。
再び沈黙が落ちる。外では、海の波が岸壁に打ち付けていた。それが部屋に響く唯一の音だった。
先に動いたのは和人だった。彼の肩から力が抜ける。声から険が消えた。
「わかった。俺を信用できないのは理解している」彼は手で髪をかき上げた。「だが、せめて妊婦健診には関わらせてくれ。子供の父親としての責任を果たさせてほしい」
私はためらった。胸の前で腕を組む。
彼はそれ以上、何も言わなかった。ただそこに立ち、待っている。
「……健診だけよ。それ以上は何も」
彼の瞳に何かがきらめいた。安堵、だろうか。「それでいい」
彼はスマートフォンを取り出した。「連絡先をもう一度登録してくれ。次の健診はいつだ?」
私は日付を口にした。彼はそれをカレンダーに打ち込んでいる。
立ち上がり、ジャケットを直すと、彼はドアの前で足を止めた。そして、振り返る。
「それと、何か助けが必要なら――羽原直樹に嫌がらせをされるとか、その他何でも――いつでも連絡してくれ」
「自分のことは自分でできるわ」
「できるだろうな」彼の視線が私を捉える。「だが、時には助けを受け入れることは弱さではない。賢明さだ」
彼の背後でドアが閉まる。私はしばらくそこに立ち尽くし、無意識に手がお腹のあたりへと伸びていた。
朝の光がキッチンの窓から差し込んでいる。カウンターで朝食用の果物を切っていると、スマートフォンが鳴った。
画面に光る、羽原直樹の名前。
私はそれを見つめた。まな板の上のナイフが止まる。長い沈黙の後、私は通話ボタンを押した。
「茉奈、話がある」
「合意書にはサインしたでしょ。話すことなんて何もないわ」
「この数日、ずっと考えていた。俺には、君なしでは生きていけないと気づいたんだ」
私はコーヒーマグを置いた。カウンターに、少し強く当たりすぎた。
「私が間違っていた、茉奈。すべてにおいて。恵麻は……」彼は言葉を切った。「彼女には子供を産ませて、それで別れる。私たちはやり直せる。一緒に子供を育てて、もう一度始められるんだ」
私の表情は、衝撃から冷たいものへと変わった。窓辺へ歩き、海を見つめる。深呼吸。そして振り返り、ガラスに背を預けた。
「無理よ、直樹」私の笑い声は冷え切っていた。「一つ教えてあげる。私、妊娠してるの」
電話の向こうが静まり返る。
「……何て言った?」彼の声は氷のようだ。
「妊娠してるって言ったのよ、直樹。だから心配しないで。恵麻さんとあなたの人生を生きて」
「そんなはずはない。三ヶ月前はまだ一緒にいたじゃないか」
「三ヶ月前? あなたがドローンを使って恵麻さんに告白したあの夜のこと? 」鋭い笑いが漏れる。「私、あの夜は家に帰らなかったの」
彼の声が震える。「浮気したのか? 茉奈、どうしてそんな……」
私の中で何かがぷつりと切れた。
「どうしてって?」言葉が爆発する。「羽原直樹、あなたにそれを聞く権利がどこにあるの? この何年、あなたには何人の女がいた? あなたが浮気している間、私の気持ちを一度でも考えたことがある?」
彼は黙り込んだ。
「父親が誰かなんてどうでもいい。あなたの子じゃない。合意書にはサインしたし、資産も分けた。私たちにもう関係はないの」
私は電話を切った。手が震えている。窓に寄りかかり、目を閉じた。太陽の光が顔を温める。
三十分後、ドアを叩く音が始まった。怒りに満ちた、暴力的な音。誰かがドアを激しく殴りつけている。
和人かと思った。昨日何か忘れ物でもしたのかもしれない。
ドアを引いて開ける。
そこに立っていたのは羽原直樹だった。顔は青ざめ、目は血走っている。髪は乱れ、スーツはまるでそれを着たまま眠ったかのように皺だらけだった。
「言え。父親は誰だ」
ドアを閉めようとする。彼の腕がドアを叩きつけ、無理やり押し開けた。彼は私を突き飛ばすようにしてリビングへなだれ込んでくる。
「あなたには関係ないことよ」
彼はくるりと向き直り、部屋の隅々まで視線を走らせた。シンプルな家具。テーブルの上に散らばったデザインスケッチ。光を反射するジュエリーのサンプル。
「ここに引っ越したのか? この場所は……」彼は言葉を止めた。「自分で買ったのか?」
「私のお金で。慰謝料と、私の事業で得たお金。何か問題でも?」
彼は私を睨みつけた。呼吸が荒い。「誰なんだ? 父親は誰なのか言え!」
「それが重要? あなたは三ヶ月前、あのドローンで自分の選択をしたでしょう。『恵麻、愛してる』って。覚えてる?」
「あれは間違いだった! 混乱していたんだ、俺は……」
「七年間も混乱してたって言うの? 五人の違う女と付き合ってる間ずっと?」
彼の顔が真っ赤に染まる。「俺の知ってる奴か? 俺に復讐しようとしてる誰かなのか?」
「すべてがあなたのこと中心に回ってるわけじゃないのよ、羽原直樹」
「ならどうして言わないんだ!」彼の声が大きくなる。
彼は私に向かって一歩踏み出した。そして、もう一歩。
その時、玄関から声が割り込んだ。
「何か問題でも、羽原さん?」
私たちは二人とも振り返った。
和人が入り口に立っている。朝日を背に、逆光に照らされて。彼のスーツは非の打ちどころがなく、表情は冷ややかだ。手には袋を提げている。
彼は招きも待たずに中へ入ってきた。その動きは計算され尽くしており、羽原直樹と私の間に割って入るように立つ。袋はテーブルの上に、ことりと軽い音を立てて置かれた。葉酸サプリ。妊娠中の栄養補助食品。その文字は、見間違えようがなかった。
羽原直樹が凍りつく。彼の視線が和人に釘付けになり、それから袋に落ち、再び和人に戻った。
「黒川和人?」彼の声がひび割れる。「お前か?」
衝撃と怒りが彼の顔の上でせめぎ合っていた。
「俺の妻と寝たのか!?」
和人の笑みは鋭かった。「元妻、だろ。それに、法的には一度も君の妻ではなかった。忘れたのか?」
「この野郎! 俺に復讐するためにこんなことをしたのか、そうだろう! お前……」
「出て行ってもらおう。ここは君を歓迎しない」
羽原直樹の胸が大きく上下する。彼は私たち二人を見比べ、その瞳の中で何かが砕けた。「茉奈、お前、本気でこいつと……こいつが誰だか分かっているのか? 俺の宿敵なんだぞ!」
和人の笑みは揺るがない。その声は挑発に満ちていた。
「君の元妻が誰といるかなんて、君には関係のないことだ、羽原」
