第1章
便器の冷たい陶器が指先に食い込む。トイレの中に、麗奈の笑い声が反響していた。
「ほら、新入り。一口くらい、死にはしないでしょ?」
麗奈は個室の扉にもたれ、苛立たしげに爪をリズムよく鳴らす。
「それとも、あたしたちより自分のほうが上だと思ってる?」
麗奈の背後では、三人の女子が出口を塞ぎ、スマホを構えていた。私の屈辱を撮る気満々だ。
強い薬品の洗剤臭が、尿と便の悪臭に混じって鼻を突いた。
どうして、入学初日からこんなことに――ブラックウッド学園で。
「何考えてるか、わかるよ」
麗奈はまるで他人事みたいに爪を眺めながら言った。
「誰かが助けてくれるって思ってるんでしょ。先生が気にかけてくれるとか。レストランで働いてるあなたのママが守ってくれるとか」
彼女は笑った。
「でもね、いい? ダーリン――黒崎はこの街を回してるの。うちの名前があれば、どんな扉も開く。で、あんたは?」
一拍置いて、むき出しの侮蔑を瞳に閃かせる。
「奨学金で入ってきた、慈善枠の可哀想な子。ギリギリで潜り込んだだけのね」
美月が一歩進み、私の髪に手を伸ばしてきた。
「言われた通りにしなよ。早く。こっちはパーティー行くんだから」
「待って」
恵茉が突然口を挟んだ。視線はスマホの画面に釘づけだ。
「先に角度合わせる。こんなの、毎日撮れるわけじゃないし」
麗奈がくすくす笑う。
「そうそう。学校の掲示板にも上げてね。タイトルは……『奨学生の初授業』とかどう?」
私は勢いよく立ち上がり、全力で美月を突き飛ばした。美月は床に叩きつけられるように倒れる。
「このクソ女!」
沙耶が飛びかかって掴もうとしたが、私はすでに窓へ向かって駆け出していた。
ここは二階。
でも、あんな動画を撮られるよりはましだ。そんなものが出回ったら、私が壊れる。母が壊れる。必死に守ってきたものが全部、終わる。
「やるわけないでしょ!」
麗奈の声が甲高く尖った。
「飛んだら、あんたの兄貴、この街で一生仕事できなくしてやるから!」
私は窓から身を乗り出し、そのまま跳んだ。
地面に叩きつけられた瞬間、左脚の骨が嫌な音を立てて折れた。痛みが全身を飲み込み、視界が墨を流したみたいに暗くなっていく。
生徒たちがわっと集まってきた。
「うそ、飛んだ!」
「動画! 撮って!」
「やば……」
フラッシュが次々に光る。誰も助けに来ない。安全な距離から私の痛みを切り取り、SNS用のネタにするだけだ。
涙で滲む視界の向こうで、麗奈が校舎から走り出てくるのが見えた。
彼女は人垣をかき分け、私の横にしゃがみ込む。周囲は「助けに来た」と勘違いし、さっと道を空けた。
「痛い?」
麗奈が囁く。
「いいね。それがブラックウッド学園のルール。あたしに従うか、出ていくか。あんた、いちばんバカなほう選んだね」
彼女の手が、折れた脚に置かれ――ぐいっと押し込まれた。
痛みで息が止まりそうになる。叫びたいのに、声が出ない。
麗奈は満足げに微笑んだ。
「これで全校が知った。あんたは頭のおかしい子。で、戻ってきたら……戻ってくる勇気があればだけど、誰も話しかけてくれないよ」
彼女は立ち上がると、瞬時に表情を心配そうに作り替え、声のトーンを一段上げた。
「やだ、誰か救急車呼んだ!? この子、すごく怪我してる!」
完璧な演技。
そのとき、黒い大型高級車が校舎前にゆっくりと停まった。
後部ドアが開く。
男が降りてきた。
「D!」
麗奈の声が一変した。さっきまでの残酷な余裕は消え、怯えと頼りなさだけが浮かぶ。
彼女はまるで自分が被害者でもあるかのように、その男へよろめくように駆け寄った。
痛みのせいで、私には男の顔がはっきり見えない。
聞こえるのは二人の会話だけ。水の中越しみたいに、くぐもっていた。
「麗奈ちゃん、何があった?」
低く、滑らかで、心配そうな男の声。
「こわくて……あの子が……」
麗奈は涙声で震えた。
「今日転校してきた子なんです。今朝、一人でお昼食べてたから、声かけて、こっちに来ない?って誘っただけなのに……」
「それで?」
「それで、急に……急にキレちゃって」
麗奈は嗚咽で言葉を詰まらせた。
「マフィアの娘みたいな私が話しかける資格ないって……それから、黒崎家の本性をみんなに見せてやるって言ったんです。私、ほんとに怖くて……」
叫んで否定したかった。けれど喉から出たのは、かすれた呻き声だけだった。
誰にも届かない。
「脅したのか?」
男の声が冷たくなる。
「それどころじゃないです。今日の午後、トイレで私を追い詰めて……私の醜い写真を撮って、ネットに上げて黒崎家の評判を潰すって言ったんです。逃げようとしたら突き飛ばされて、転びそうになって……それで私、外に出て逃げたんですけど、追いかけてきて……それで、どういうわけか窓から飛び降りて……」
「私、怖い……」
麗奈の声がどんどん小さくなる。
「もしあの子に何かあったら、私のせいだって言われますか……?」
「違う」
反論を許さない力が、その声にはあった。
「全部、俺が片をつける」
「でも――」
「いいか、麗奈ちゃん」
男は口調を和らげた。
「君は黒崎家のお姫さまだ。誰かが君をいじめるなんて許さない。必ず報いを受けさせる。わかったな?」
「いい子だ」
甘やかしと慈しみに満ちた声。
ぼやけた輪郭のその男が、麗奈の髪を優しく撫でる。
さっきまで私を痛めつけていた悪魔が、まるで宝物みたいに抱かれていた。
「どこへ行きたい?」
男が尋ねる。
「気晴らしになるところへ連れていく」
「アイスがいい」
麗奈は可愛く頬を膨らませた。
「なら、ブルーエンジェルへ行こう」
私は目を閉じた。涙が頬を伝って落ちる。
このままここで死ぬんだと思った、そのとき――聞き慣れた声が響いた。
「絵奈!」
兄の声だった。
瑛太。
人垣をかき分けて駆け込んできて、私を見た瞬間、兄の全身が凍りついた。
「……嘘だろ……絵奈、どうしたんだよ……?」
瑛太は私のそばに膝をつき、震える手で抱き起こそうとして――途中で止めた。傷つけるのが怖いのだ。
話したいのに、喉から漏れるのは壊れたみたいな嗚咽だけ。
「大丈夫。大丈夫だ、俺がいる」
瑛太は自分の上着でねじれた脚を覆い、次いで慎重に私の頭を支えた。
「誰か救急車呼んだのか!」
群衆に向かって叫ぶ。
返事はない。
スマホを掲げたまま、まだ撮り続けている。
瑛太の目が赤く滲んだ。立ち上がると、いちばん近くにいた男子へ突進し、スマホを奪い取って地面に叩きつけた。
「消えろ!」
瑛太は吠えた。
「全員だ!」
ようやく群衆が、少しだけ後ずさった。
そのとき、麗奈が戻ってきた。
黒い大型高級車に乗り込んだはずなのに、今度はドアを開けて駆け寄ってくる。顔いっぱいに心配を浮かべて。
「大丈夫ですか?」
彼女は身をかがめ、目の縁を赤くして言った。
「救急車、もう呼びました。すぐ来ます。どうか、頑張って……」
瑛太が顔を上げ、彼女を見る。
兄の動きが止まった。
あんな表情、見たことがない。驚きと戸惑い――そして、言葉にできない何か。
麗奈の瞳に、ある光がひらりと走る。
「あなたは……?」
春風みたいに柔らかな声で、彼女が尋ねた。
「瑛太」
兄は反射みたいに答える。
「灰原瑛太。こいつは俺の妹だ」
「灰原……」
麗奈はその名字を繰り返し、唇の端をゆるく持ち上げた。
「私、黒崎麗奈です。さっきのは本当に怖くて……あなたの妹さんが……」
「何があったか知ってるのか?」
瑛太が焦った声で詰め寄る。
麗奈は唇を噛み、迷っているふりをした。
「……私、よくは……」
慎重に言葉を選ぶ。
「私が見たのは、トイレの窓から飛び降りたところだけです。その前に、トイレで何人かの子と一緒にいるのは見たんですけど、何があったかまでは……」
無害に聞こえる程度に、曖昧にしている。
「妹はいじめられてたってことか?」
瑛太の声が、危険な色を帯びた。
「わからないです……」
麗奈は首を振り、涙をぽろぽろ落とした。
「ごめんなさい。もっと早く気づくべきでした。もし気づいていたら、止められたかもしれないのに……」
泣き方まで、綺麗だった。
瑛太は彼女を見つめ、複雑な目をしていた。
「君のせいじゃない」
やがてそう言う。
「救急車を呼んでくれて、ありがとう」
「……いえ。できることをしただけです」
麗奈は涙を拭った。
「何か必要なら、言ってください。私……とても腕のいいお医者さまを知ってます」
彼女は小さなバッグから名刺を取り出し、瑛太へ差し出した。
「連絡先です」
瑛太がそれを受け取る。指先が触れ合った瞬間、兄の身体がかすかに震えたのが見えた。
麗奈もそれに気づき、満足げに口元を吊り上げる。
だが次の瞬間には、また心配そうな顔へ戻った。
「もう、お邪魔しません」
麗奈は優しく言った。
「妹さんが、どうか無事でありますように」
そう言い残し、彼女は踵を返して去っていった。
瑛太は呆けたように、その背中を見つめている。頬がうっすら赤い。
車のドアが閉まり、黒い大型高級車は走り去った。
それでも瑛太は、遠くを見るような目で、まだそちらを見つめていた。
